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ドキュメンタリー映画「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」 [映画]

 ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスのドキュメンタリー映画「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」の試写を渋谷のアップリンクで観た。 監督は1959年生まれのアンドレス・ファイエル。本作はヨーロッパや米国などで2018年に公開された。

 映像と写真をテレビの特集番組のように巧みにそしてリズミカルに構成しながら、稀代の芸術家の実像に迫る。ボイスを撮影した映像と写真のアーカイブは膨大にあったとのことで(300時間におよぶ映像、300時間ぶんの発言や彼について語った音声、50人の写真家による2万枚近くの写真)、その中から選んだシーンやカットを編集し、間にボイスと旧知のキュレーターや友人などの関係者インタビューをはさむ。

 ヨーゼフ・ボイスはマルセル・デュシャン以降の芸術家としては、ヨーロッパで大きな存在感を放つ。1921年に生まれ、1986年にデュッセルドルフで亡くなった。フェルトや脂肪などさまざまな素材を用いた作品をはじめ、多様なパフォーマンスを続け、各地で対話や議論を行い、アジテーションし、黒板を使ったドローイングなど、従来の表現形式を大きく超える仕事を続けた。パフォーマンスは先鋭的で、のちに続く表現者たちの先駆的な役割を果たす。1984年に西武の招聘で来日し、西武美術館での個展や草月ホールでのパイクとのパーフォーマンス、講演会、大学生との対話集会などを行っている。

 ボイスは大戦中に爆撃機に搭乗し、撃墜された経験を持つ。墜落した際に重傷を負い、フェルトと脂肪で身体を包まれ、タタール人に命を救われたというエピソードを後年語った。紹介文の中で坂本龍一氏が指摘しているボイス芸術の根幹にある「傷」については、私も昔から意識していた。彼の一部の作品にはなにかを治癒したり、救助することを暗示するような側面がある。戦争だけでなく、白黒映像の中の芸術家は社会や狭義の芸術、システムなどに対し、常に問いを投げかけ、彼がいうところの「反感や共感を超えた世界」を目指していた。その活動の経歴を映画としてまとめて見ると、古いアーカイブにもかかわらず、アグレッシブで生々しい。そして、独特の挑発の裏に漂う脆さや危うさを感じずにはいられない。

 その脆さや危うさとはなんなのか、本作はボイスの行動や言葉からにじみ出る哲学や思考(彼がいう彫刻)を多くの映像で追っているが、そこに現れているものを容易には形にすることができない。存命中は無理解にさらされ、批判も多かったはずだ。反感や共感を超えた彼の立ち位置もその要因だろう。手がかりとなる、映画の中で語られたボイスの言葉の一部を取り上げてみる。

「俺の作品は窓から捨てよう。
あんたの作品もまず捨てろ」

「俺は人々の意識を拡張し、現実の政治状況を語れるようにしたい。
今、民主主義はない。
官僚政治に教育されて、自由な人間になれない。
だから俺は挑発する」

「皆が詩人や画家だとは言っていない。
だれもが社会の芸術家という意味だ。
新しい芸術には全人類が加担すべきだということ」

「撹乱は必要だ。
人目を引くためにね」

 1982年のドクメンタ7では7000本の樫の木を植えるプロジェクトを実現していた。当時、彼のアクションや思想を理解していた人はどれほどいたのか。デュシャン同様の作品の捉えにくさと暗喩、謎めいた行動。大学生だった私もほとんど意味がわからなかった。来日前にスタジオ200で見た映像「私はアメリカが好き。アメリカは私が好き」を私は長い間、頭の中で反すうしていた。訪れたアメリカで誰にも接触せずフェルトに包まれたまま移動し、檻の中でコヨーテと出会うボイス。1984年の西武美術館で見た展示からも強い影響を受けた。フェルトのスーツ、ソリ、干からびたキャベツと譜面台。しかし常に頭の中に湧き出ていたのは、それらの物質の質感と触覚からくる感覚的な印象と「いったいこれはなんだ?」という単純な疑問だった。

 彼は虚構や神話的な人物だったのではない。鋭い観察眼や洞察をもって、対話や議論を行った。'84年の来日時に芸大体育館で開かれた学生との対話集会において、学生の「日本にはどうしてボイスのような人が現れないのか?」との稚拙な質問に対し、「日本人の対話が沈黙に陥っているからだ」[*]と語り、日本人の特性を的確に見抜いていた。

 あれから35年経ったいま、私はようやくボイスの輪郭を捉えることができるようになったように思う。この映画はその大いなる一助になる。あらためて、来日時に西武が撮影した映像を見て言葉を追った(これは本作とは別の作品)。疑問は捨て去らず、持ち続けるべきだ。「だれもが社会の芸術家という意味だ」という彼の活動を語るときに欠かせない概念「社会彫刻」。すべての人が社会変革に参加し、その際に発揮する力、ボイスはその創造力を芸術と呼んだのかもしれないと思い、端緒に触れた気がした。ボイスからすれば、油彩画を悶々として描いている私などは「いまだに古い形式にしがみついて”作品”を捨てられない人間」ということになる。ボイスの思考は、芸術から政治、民主主義、われわれの未来までを一気に貫く長い棒だ。それは人々の自律と対話なしには存在しない棒である。彼の挑発はいまだに有効であり、そればかりか、存在感は強まっている。

 ヨーゼフ・ボイスは間違いなく、現代芸術に際立った足跡を遺した巨人だと思う。彼のアクションと思想がリアリティをもってスクリーンの向こうから迫ってくる。しかし映画の終盤にさしかかり、緑の党の政治活動に参加するあたりからどんよりとした不安定さを感じるようになる。「作品」制作から離れ、人々の中にまぎれて生身で行動する姿から、ボイスの存在が逆に見えなくなっていく。政治と創造性の接点でなにかをつくる、あるいは人々に転換を促すというのはかくも難しいということか。「だれもが社会の芸術家という意味だ」という言葉に人々は続かなかった。

 入院生活のカットでは、いつも被っていた帽子を脱ぎ、禿げ上がった頭を露出してカメラを見つめる。その顔からは、なにかを成し遂げられなかった虚脱感さえ感じた(それはわれわれの現状が、ボイスが描いていた世界とかけ離れた方角へ向かっているせいかもしれない)。彼が民主主義、経済、政治そして芸術と自律という重要なキーワードに'70年代(あるいはそれ以前)からコミットしていた点はいま注目に値すると思う。そして私はあらためて「拡大された芸術概念」について考える。ボイスの挑発は色あせない。



[*]「それは人間同士の対話が沈黙に陥ってしまったからでしょう。本来の深い人間性の問題についての対話が行われなくなったのです。特に日本の驚異的な経済成長の時期には、人間の内的欲求は生活水準向上の欲求に変えられてしまったのです。この誘惑の中でブレヒトの明快な洞察を実行するのは困難です。つまり、いかなる革命にもまさる未来の革命とは、人間が人間同士で徹底的に話し合うことだと彼は言うのです。毎日、毎時、毎分たえず自分の考えや意識を伝え合うことが、人間が集まって考えを述べ合うことが、連帯を生む唯一の道であり、大勢が連帯すれば無批判に受け継がれてきたシステムに打ち勝つことができるのです」

2019年3月2日からアップリンク(渋谷・吉祥寺)ほかにて公開。
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ポゴレリッチの「交響的練習曲」 ピアノリサイタル2018 [音楽]

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本番前のイーヴォ・ポゴレリッチ

 ポゴレリッチの音楽はきわめて厳しく、そして美しい。
サントリーホールにて、イーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルを聴く。私は彼のコンサートに足を運んだのは4度め。今回は舞台側の2階席、演奏者の背中を見下ろす位置で聴いた。

演目:

モーツァルト「アダージョ ロ短調 K.540」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」
****
シューマン「交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)」

 コンサートが終わって、心に残る余韻を思い出しながら感じたのは冒頭の言葉だ。その厳しさは、演奏家が自らに課したものであると同時に、険しい道を追究し続ける成果としての表現からくる。私は、ピアノから発せられる一音一音に、近年耳にしたピアニストの中では比類のない厳しさを感じた。同時に、従来の演奏解釈からかけ離れた音楽は、ときに異彩を放ちながらもきわめて美しい。

 厳しさを支えるのは、優れた耳と卓越した技量。そして、パワーと繊細さ。大柄な体躯の演奏家だが、強さと弱さ、明るさと暗さ、テンポ、間、高さと低さ、長さ、広がりを細部まで驚くべき精度でコントロールしている。聴き手が全幅の信頼をもって耳を傾けられるほどに。この演奏家に「テクニック」などという言葉は不要だ。

 ポゴレリッチが奏でる主旋律は、垂直方向に光のように伸びていく。それが、林立しては消える角柱のごとく見えるようだ。そして、主に左手が担う伴奏は、水平方向へ広がっていく。最低音の重さは地の底へ沈むごとく。長い間の先に、打ち込むような一つの低音が鳴り響く。これによる豊富な倍音が音楽にふくらみを与える。同時に、このピアニストは、音の発生から到達時間、そして減衰までも把握しているに違いない。それらが三次元的に立ち現れるさまは、CDでは決して感じることはできない。輻輳するのではなく、垂直水平方向に伸びていく。これはホールだからこそ感じることができるかけがえのないものだ。聴衆は演奏会場でまったく新しい音楽の誕生を目撃する。

 今回のプログラムの3曲には一貫性があり、曲調に共通した部分が多い。長編「交響的練習曲」は忍耐強い研鑽に適した作品であり、演奏の高い完成度を実感した。タルコフスキーの映画における長回しのカメラが横に流れるように、ポゴレリッチの時間は途切れずに続いていく。ときに情動をはらむさまざまな感情の流れ。後半は激しく打ち寄せる波濤にのみ込まれていく。そして現れる光のような旋律。時間を潤沢に操り、聴き手は、音楽が永遠を刻む時間による芸術であることをあらためて知る。

 以前も言及したが、彼の演奏はどれほど多くの音が重なろうが、どれほど深く鍵盤をたたこうとも、ハーモニーににごりがない。特に低域の和音が美しい。この強靭な制御力はどこからくるものなのか。インタビューで彼はその点について「自分が発する音に十分に耳を傾けてきた」というようなことを語った。自身が最初の弾き手であると同時に、最初の、そして最高の聴き手でもあった。

 ポゴレリッチは情景のつくり方も秀でている。誤解を恐れずにいえば、「感情」や「物語性」あるいは歴史さえも超越して音楽世界を構築しているかのように聴こえた。それこそがまさに芸術だ。威厳に満ちた響きや高らかに放たれるハーモニーはこころを打つが、最終的に私が感じたのは、厳しさに裏打ちされたゆるぎのない豊かさだ。悲しみや苦しさ、喜び、時代の運命を超えたところにある精神的ななにか。その存在を強く感じさせてくれた演奏だった。

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル
場所:サントリーホール
日時:2018年12月8日(土) 19:00 開演

モーツァルト「アダージョ ロ短調 K.540」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」
****
シューマン「交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)」
※アンコールはなし


以前のポゴレリッチ・ピアノリサイタルの記事:
イーヴォ・ポゴレリッチの「ラ・ヴァルス」 ピアノ・リサイタル2017
イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016
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「ボヘミアン・ラプソディ」ーフレディ・マーキュリー葬送ー [音楽]

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 ミュージシャンや画家の人生を描いた映画で、感心した作品には出会ったことがない。たいていはがっかりするか、腹立たしい気持ちで映画館を後にする。英国のロックバンドQueenを取り上げた「ボヘミアン・ラプソディ」を立川のシネマシティで観た。前述した理由で、当初は見るつもりはなかったが、同世代の友人・知人たちが皆「涙が出た」「もう一度観たい」とSNSに投稿しているので、重い腰を上げて足を運んだ。

 予告動画は観ていたため、フレディ・マーキュリー役がどの程度本人に近づいているかは見当がついた。どだい、あの稀代のパフォーマーを演じきれる俳優など世界中探してもいるわけはない。シネマシティ得意の「極音」によるライブシーンの再現だけでも観られればいい、くらいの気持ちで映画館に入る。ところが、座席について映画が始まると、ライブを再現した場面の一曲目ですでに目頭が熱くなってきた。これはどうしたことだろうと感じながら、友人たちの言葉につられただけだと思い込んだ。

 前半は、フレディ・マーキュリーがロジャー・テイラーとブライアン・メイのバンドに加入し、トントン拍子で人気グループになるまでを描いている。後半は、フレディの元を去る恋人や、メンバーとの亀裂、取り巻きの罠、エイズの発症などの重苦しい現実が画面を覆っていく。このあたりはこのスーパースターに関して世間に広まった話をなぞっている。しかし、後半でヒット曲が演奏されるたびに、胸に迫るものがあった。メンバーと和解し、エイズの先に待つ死の足音を乗り越えて出演したライブエイドの演奏シーンでも涙してしまった。それは単に懐かしさから来るものだけではない。

 私が初めてのQueenを聴いたのは、中学2年のころだったろうか。当初はなんだか少女漫画に登場するような髪型と格好が気恥ずかしく、敬遠していた。しかし、曲がよくてギタリストがすごいという同級生の女の子の話を聞き、当時のイチオシだったKISSと平行して聴くようになる。とはいえ、中学生の私の耳には「華麗なるレース」などは少々高尚すぎた。その音楽性の高さを本当に実感したのは高校に入ってからだった。フレディ・マーキュリーの歌と作曲能力のすごさ、ロジャー・テイラーとジョン・ディーコンのリズム隊の高いコンビネーション、ブライアン・メイのクールで琴線に触れるメロディーラインと幅広い表現力、実験的なサウンド、そして完璧なコーラス、ハーモニー。十代のころに聴いた音楽はかけがえのないものだ。アルバムとしては「世界に捧ぐ」「JAZZ」「The Game」をよく聴いた。最近聴いているのは「オペラ座の夜」と「華麗なるレース」の2枚。映画を観終え、Queenそしてフレディ・マーキュリーは、思っていたよりも深く、私に影響を与えていたことを知る。

「ボヘミアン・ラプソディ」はQueenとその楽曲を賛美するためにつくられた映画だ。Queenというバンドの文字どおり「絆」をテンポよく音楽に絡ませて描いている。4人の絆を通して映し出されるある種の純粋さの映し方がうまい。このバンドの音楽を再認識させるのに十分な作品といえるだろう。ネタバレになってしまうが、本作のストーリー展開は時系列などを変え、かなり脚色している。フレディがエイズ感染を医師に告知されるのは実際はライブエイドの後だし、メンバーが彼のエイズを知ったのもライブエイドの前ではない。また、フレディがかなり俗物的に描かれ、彼とメンバーがあれほど険悪な関係になったとは思えない。それはブライアン・メイの後年のインタビューを読んでも明らかだ。

 それでも、自分がこの映画で涙したのはどういうことなのか、と考えた。それはたぶん、私がフレディ・マーキュリーの死を本作であらためて受け入れたということなのだろう。彼がエイズで亡くなったという知らせは、遠い国から伝わってきてはいた。1991年のことだ。しかし、自分の中ではその事実をぼんやりと心の中に置いていただけだったのだ。私にとって「ボヘミアン・ラプソディ」を観るのは、フレディ・マーキュリーのバンド人生をたどるのではなく、スクリーンと対面しながら、彼を葬送することを意味していた。これもすべて、彼の類まれな歌声と才能、人格、Queenというバンドが奏でる音楽の美しさゆえなのだと思う。個人的には映画の形を借りた遅れた音楽葬になったが、フレディ・マーキュリーという人間の本質をあらためて認識するきっかけになった。ここから私の新しいQueenが始まる気がする。
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コンビニのおにぎり [生活]

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 コンビニのおにぎりを調べている人の記事をWebで見つけた。大手のコンビニ3社(セブン-イレブン、ファミリーマート、ローソン)で販売されているおにぎりに絞り、それぞれに食品添加物がどれくらい含まれるのか(おにぎり裏面の「原材料名」内に記載のある添加物のみをカウント)、どのコンビニのおにぎりが一番安全なのかを調べたという。サンプルは梅、鮭、明太子、ツナマヨの4種類。

 結論からいうと、セブン-イレブンのおにぎり、特に「梅」と「鮭」が比較的安全とのことだ(平均3.5。梅は2、鮭は1)。いちばん添加物が多かったのがローソン(平均9.75)。厳密な分析ではないにせよ、この話には納得できる。というのも、コンビニの弁当やおにぎり、菓子パンを食べない私が唯一口にするのが、セブン-イレブンの梅と鮭だからだ。三十代まではときどきコンビニの弁当やおにぎりを食べていたが、四十代を過ぎたころからはたいてい胃がもたれるというか、どうにもむかむかして調子が悪くなった。ところが、セブン-イレブンの梅と鮭だけはさほど胃が不調にならなかったのだ。

 念を押すが、3社の中でセブン-イレブンが「比較的」安全ということだ。食品添加物の材料記載に関する規定は実はいい加減であり、ほかの添加物との組み合わせなどによっては表記しなくてもいい場合がある。弁当やおにぎりに限らず、コンビニで販売している菓子パン類も添加物が多数含まれている。食品添加物に関しては別の機会に話題にしたいと思うが、とにかくなるべく摂取しないように心がけたい。日本人にがんが多い原因のひとつは食品添加物にあると思う。そして食品メーカーは、「薬を使わずに食品を作ることができない」ではなく、「儲けを出すために薬を使う」が根本的な姿勢。私は、異物に対する反応が顕著に出る体質だ。特に胃腸は敏感で、悪いものにはすぐに反応する。炭鉱のカナリアである。

 
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落語家と餅 [落語]

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 NHKの若い人向け落語番組の最後のほうで、若手の落語家が「明烏(あけがらす)」を演じていた。いまどきのアニメのキャラクターのような顔で髪にパーマをかけ、どこからどう見ても落語家に見えない。容姿はともかく、その芸がどうにも消化不良だ。15歳のころ入門したとのことだったが、まったく言葉が滑っている。しっかり腹に収めてから伝えるべきところ、喉を落語家的に鳴らしているにすぎず。

 私はそれほど落語に明るくはないが、好きでときどきホールに通い、テレビやラジオなどでも時間があれば聴く。思えば落語の噺、具体的にいうと言葉の一つひとつは餅のようなものだ。ほどよく焼いて焦げ目をつけ、さあどうぞ、という具合に客に届ける。焦げ目がつけば、安倍川だろうが、のりだろうが、豆だろうが自在で、それがその噺家ならではの一芸につながる。もちろん言葉は滑らず、客はおいしくいただくことができる。ところが若手の落語家は、餅がまだ生焼けのうちから客の皿に載せてしまい、それに気づいていない。真打ちでも生焼けの落語家はけっこう多く、残念なことだ。

 その番組には春風亭一之輔師匠も常連で出ているが、若手育成の意味もあってゲスト出演しているのだろう。番組前半でその回で取り上げる演目や落語のうんちくを司会と一之輔師匠を含めた4人の落語家で解説し、締めで一席口演する。解説や落語家の考え方や作法などについての話はためになることも多い。しかし、いかんせん若手落語家の話が軽薄だ。そのうえ、締めのあの程度の落語で、しかも短縮版で面白さを伝えるのには無理がある(もちろん一之輔師匠が高座に上がる場合は別だが)。番組中で見本として流れる昭和の大看板たちの映像の噺、その面白さ、芸のすごさこそじっくり語りあうべきだと思う。そういえば、「平成の大看板」はいるのだろうか。だれか教えてほしい。
 
タグ:落語 NHK 噺家
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文壇バー「風紋」に行く [文学]

 少し前の話になるが、新宿の文壇バー「風紋」を訪ねた。6月28日に閉店になるというので、26日に林聖子さんに会いに行ったのだ。

 5年ほど前、会社の同僚のM君に風紋に行こうと誘われていたのだが、結局こんな時期になってしまった。「聖子さんから、太宰治や当時の三鷹などの話が聞ける」とM君は言っていた。太宰の小説は7割がた読んでいたのだが、自分にはこの小説家と懇意にしていた女性に会いにいくほどの熱意はなかった。

 しかし、とうとう店が閉まると聞いて、一度は訪れなくてはと思い立つ。三鷹のフォスフォレッセンスの店主Dさんも行ったほうがいいと背中を押す。なにしろ、生身の太宰治を知り、小説に登場する人物(「メリイクリスマス」のシヅエ子ちゃん)の基になった人だ。そのような機会はもうないだろうし、面白い話が聞ける気もしてきた。

 店には6時頃着いた。新潮社の編集者とカメラマンが店内と聖子さんを撮影しており、また聖子さんの弟さんが来ていたので、30分ほど待たされた。カウンターの端に座ったが、聖子さんがテーブル席に移ったので自分もそちらに移動し、「三鷹から来ました」と挨拶した。店は少しずつ整理が始まっており、林倭衛(しずえ=聖子さんの父親、画家)の画集や本などが並べられ、少し落ち着かない。ゆっくり昔話をするにはおそすぎる訪問だった。

 聖子さんは今年90歳。年齢の割には背筋が伸びている。カウンター内でもテーブル席でも座っていることが多かったが、昔はさっそうとしていたのだろう。会話もはっきりしていた。時間があれば、昔話をじっくり聞くことができたろう。後日知ったことだが、聖子さんは以前セザンヌのアトリエを訪ねていた。大正14年(1925年)、林倭衛がそのアトリエを制作のために借りていたのだ(林聖子著「風紋五十年」に記載)。セザンヌのアトリエの印象を聖子さんに聞いてみたかった。

 聖子さんと三鷹の話をした。逆にこちらがいまの街の様子を伝えた。彼女と母親の秋田富子さんは井の頭病院の東側、三鷹通りを越えた先あたりに住んでいたという。桜井浜江さんの家はもっと駅寄りだと言ったが、位置的にはそれほど離れていない気もする。毎年、禅林寺に富子さんと太宰の墓参りに行っていたが、昨年、飲まず食わずで出かけて、帰りに倒れそうになったのだという。だから、今年は墓参りに行かなかった。外出するときは補助の歩行カートのようなものに頼っている。

 富子さんのお墓は太宰の墓の西側にあることを知った。私は「禅林寺の前をよく通りますので、ときどきお線香をあげに行きましょう」などと気前のいいことを口にした。同席した太宰治記念サロンのガイドのSさんは二人の墓参りを欠かしていないという。私は酒が飲めないので、この日は烏龍茶で口を潤した。Sさんが作った肉じゃがや卵焼き、漬物など、おかずがたくさん出てきて、聖子さんやお手伝いの女性たちと一緒に食べた。カウンターに若松屋(鰻屋)からの花が飾られていた。

「メリイクリスマス」に書かれてあったように本当に赤いレインコートを着ていたんですか、と尋ねるとそうだという。太宰に関する話はそのくらいしかしていない。私と同じような一元の客や、馴染みの客がひっきりなしに来ていたからだ。閉店する理由については、お客さんが来なくなったことを挙げた。昔は編集者や作家たちがたくさん来店したのだとのこと。聖子さんの身体の具合もあるが、いちばんの理由はそれなのだろうと思う。私は、いまの編集者は飲まないし、作家と会う機会も減りましたね、と答えた。有り体に言えば、文化がなくなってしまったのだ。風紋には、檀一雄や中上健次などの作家や出版関係者、画家、俳優などが通い、店を盛り上げていた時代があった。

 最後に聖子さんの写真を撮らせてもらい、「またお会いしましょう、お元気で」と自分でも少し驚くくらいの声を出して手を上げ、店を後にする。ありがとう、と聖子さんは微笑んだ。扉を閉めたとき、太宰が生きていた時代の証と、その後の創作者たちの文化がどんどんと遠ざかっていくような気がした。

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睡眠時無呼吸症候群 [健康]

 日中の眠気が強いため睡眠時無呼吸症の検査を行ったところ(写真1)、就寝時に最長で3分間、一時間に32回の無呼吸状態があることが分かり、「CPAP」(シーパップ)という医療機器を装着して寝ることになった(写真2、TEIJINの「スリープメイト10」)。3年ほど前にも心療内科の医師に相談し、検査機器を付けて確認してみたことがある。その際は最長で1分程度の無呼吸状態があった。そのときは、この程度ならまだ治療の必要はないとの診断だったが、それが悪化したかたちだ。

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写真1 睡眠時無呼吸の検査キット。左のホースが鼻の穴に取り付けるH型のプラスチックにつながっており、呼吸を感知する

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写真2 「CPAP」。右上の装置からパイプを通じて酸素を送出する。左下にあるのが、鼻に装着するマスク

 この症状は字のごとしで、睡眠時になんらかの原因で気道がふさがって呼吸が止まる。たいていはいびきとセットだ。いびきがうるさい人を見ていると、突然静かになり、息をしていない状態になるのを見たことがあるだろう。そのうちに、「カッカッ」と喉が詰まるような音をたて、再び呼吸が始まる。舌と軟口蓋などが弛緩して気道が塞がれてしまう。

 だいぶ以前から家人にいびきがうるさいと言われていたが、このような状態になるとは思いもよらなかった。内科医は最長3分間は重症だという。通常は、対処法としてマウスピース(スプリント)を作成するのだが、重度なのであらためて睡眠外来科の受診か、CPAPの装着のいずれかを勧められた。

 CPAPというのは、就寝時に鼻に酸素マスク様のものを装着し(写真2の左下)、圧力をかけた空気を送り、気道が塞がらないようにする装置だ。通常呼吸しているときは標準量の酸素を供給するが、気道が狭くなったり、無呼吸状態を感知すると強制的に多くの酸素を送出して気道を開く。呼吸の状態をきちんと検知できるように、マスクは密着して取り付けなければならない。そのため、頭部と頬の双方にバンドがある。また、使用中は口を閉じていなければならない。

 就寝時とはいえ日常的にこんなものを付けるのは尋常ではない。しかも、治療ではなく対処方法であり、無呼吸症が続く限りは使い続けなければならない。なんらかの治療を行わなければやめられる見通しのない装置なのだ。CPAPはレンタルのような扱いとなり、費用は月4500円ほどかかる。マスクやエアチューブは常に清潔にし、ときどき清掃する必要がある。旅行先にも持っていかなければならず、それを考えると気が滅入った。家人はダースベーダーのようだといい、使用時は自宅にいながらICUの患者のような気分になる。

 私は6月1日から使用し始めたが、なかなか慣れることができず、高圧な送出が始まると苦しくて止めてしまう。圧が高まるまでの時間などは利用者が調整できるが、最低と最高の圧力は医師の診断がないと変更できない仕組みになっている。つらいのでいちど最高圧力を下げたもらったが(圧力レベル:通常4ー最大15から同4ー同8へ)、それでも2時間ほどしか装着していられなかった。

 そうこうしているうちに1カ月がすぎたころ、左の顎から耳の横にかけて痛みだした。徐々に痛みが増すようになったので、治療科目に顎関節症や口腔外科がある歯科医に駆け込んだ。診断は顎関節症だという。ちょうど個展が始まるときであり、痛みをこらえながら画廊に通う。歯科医から3つのアドバイスを受けた。一つは朝起きたらまず顎に温めたタオルを当てる。これは朝食の前に行い、関節や靭帯の血行をよくする。次に、食事をするときに下顎を少し前にずらしてから噛むようにする。これは意外に難しい。そして、なるべく左側の歯で噛む。CPAPの使用をストップした。

 歯科医による対処方法で2、3日過ごしてみたところ、徐々に顎の痛みは和らいできた。ところが、今度は左下の奥歯が疼き出した。急いで医者に駆け込むと、レントゲン結果を見て、奥歯の神経と歯根の下に影があり、細菌にやられているとの診断。それは一番奥に眠っている親知らずの下にまで達し、見るからに悪くなっているのが分かった。睡眠時無呼吸症から顎関節症、奥歯の根管治療ーーと不具合の連鎖だ。踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。顎関節症がCPAPによるものなのかは定かではないが、1カ月間、顎をベルトで締め続けていた影響はあるように思う。

 無呼吸症と顎関節症の双方に対応できるマウスピースが作成できると医師はいう。CPAPとは別に、それはそれで試してみようと思う。問題は顎関節症での奥歯治療だ。口を開けることはできるのだが先日は、治療中に4回、顎が外れた。医師は口腔外科も行っているためすぐにはめてくれたが、顎が外れる経験は初めてだ。日常的な場面で外れないように、あくびなどをするときに気をつけた。

 私は50歳を過ぎた頃から、身体に異変が増え始めた。ひとえに長年のさまざまなストレスや負荷の蓄積が原因であると同時に、骨や神経などの身体組織の耐久性の低下の影響もあるように思う。この状態はしばらく続くだろう。老化というのは身体の崩壊だ。若い頃は、生命力というか、抵抗力で難なく乗り切れたが、その助けが効かなくなる。横尾忠則さんのように、老化の進行を楽しむ余裕は私にはまったくないが、ある程度あきらめの心境で臨まないと気持ちがまいってしまう。いまのところ、仕事をするモチベーションが湧いてこない。さて、どうなるか。
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歯科治療 [医療]

 子供のころから虫歯で苦労した。
痛くて、よく夜中に母親に「今治水」をつけた綿を詰めてもらった。
小学校3年生くらいのときに、歯医者で一度に4本抜かれたこともある。しばらくして麻酔が切れ、痛くて枕に突っ伏して泣いた。当時の歯科医はずいぶん乱暴な治療をしていたと思う。怒った祖父が歯医者に文句の電話を入れた。
「子供とはいえ、いっぺんに4本も抜くやつがあるか」

 すでに五十を過ぎたいまでも、歯の治療で苦労している。
この年令になったからこそ、長年蓄積した不摂生が顔を出したにすぎないのだが。
仕事に熱中した20〜30代ごろは歯に無頓着で、思い起こせば、歯磨きなどはずいぶんいい加減にやっていた。たぶん2分もかけていなかっただろう。そのころから奥歯に虫歯ができはじめ、歯科医に行くと削られて、金属のインレー(詰め物)や、「アマルガム」などという銀色のアルミ材のようなものを詰められた。(このアマルガムには水銀が混ぜられていたことを後に知る)

 40代半ばでとうとう左下の臼歯を抜歯し、インプラントを入れることになった。ほとんど外科手術のようなインプラントは苦手な歯科治療でのクライマックスだった。寿命が縮んだが、口腔外科を得意とするM医師は直径7mmのボルトを私の顎に埋め込んでくれ、満足げだった。

 それからしばらくは歯磨きを用心深く行うようになったが、もともと徹夜仕事が多く、不規則な勤務形態だったせいもあり、歯のケアがおろそかになることが多かった。間食もし、昼に歯を磨く習慣はない。そのうちに右下の奥歯が痛みはじめ、HF歯科に通ったが、ここでは治療ミスや未完成なCADCAM機器「セレック」による治療など、ひどい目に遭う。

 三鷹に住んでから現在まで7つの歯科に通った。ひとつの地域でこれだけ変えるのは尋常ではない。しかし、それには理由がある。前述のHF歯科は論外として、K歯科はプラスチックを多用し、薬剤によるていねいな治療はいいのだが、いかんせんプラスチックで埋めた個所に後年虫歯が再発しやすい。それで小臼歯が一本がほぼだめになってしまった。H歯科は腕のいい医師との評判で行ったが、担当したのは二番手の医師で少々経験不足。次のF歯科も同様で三番手。若い医師は細かい施術ができるかもしれないが、要するに削って詰めるだけで、どこか淡白だ。自分がやりやすい個所を選んでいる。「お口の中の環境をトータルに見る」というが、実際には全体をよく見ていない。

 軽度の虫歯ならば、いまならどこの歯科でも大差ない治療を行ってくれるだろう。問題は、神経に近づく深い虫歯や神経治療にまで達した歯の場合だ。本当は虫歯の進行をなるべく遅らせる治療をよしとすべきなのだろう。20代前半に通った国分寺の歯科医が治療した3本の奥歯は25年以上長持ちした。医師による手技の差は実は歴然とあるような気がしてならない。金属インレーでフタをしても、結局虫歯は内部で静かに進行していく。気づいたときには深く傷んでいることが多い。その耐久期間が、歯科医の技術によって4年だったり、25年だったりする。いまでは信じられないが、本当に25年もつ治療もあったのだ。

 いろいろな歯科に通院して感じたことがある。最近の新しい医院は総じて院内が清潔だ。治療に使う器具も患者ごとにビニール袋に入れて管理し、治療台の横には治療時以外はなにも置かない。一方で、古い医院にはそれとまったく反対のところもある。雑然とちらかっており、治療代の横には常時、薬の瓶や器具、箱が置かれ、治療中の飛沫があってもおかまいなし。もっとも、清潔だから信頼できるとは限らない。2本ほど治療してみて、仕事の良し悪しが分かる。世間の評判はあまりあてにならない。ここで、歯科医の特徴を列記してみよう。

・治療計画や施術の説明がていねい。虫歯を見逃さない←○
・治療中のインターバール(うがい)をきちんと取る←○
・院内がきれい。看護師の応対や手際もいい←○
・クリーニングに力を入れ、歯周病のチェックもきちんとできる←○
・最初に治療計画を立て、あまり時間をおかずに虫歯を次々に治療していく(通院は1カ月に三、四回程度)←?
・時間をかけてじっくり治療する(通院は1カ月に一回程度)←?
・インプラントや口腔外科、顎関節症までカバーできる←○
・根管治療も時間をかけて行う←○
・かみ合わせを含め、口内環境のバランスをトータルに見る←○
・金属インレー優先←?
・プラスチック治療優先←?
・セレック(CADCAMによるセラミックインレー治療)などを積極的に勧める←×
・治療個所が長持ちする←○
・治療個所が長持ちしない(4年ほどで虫歯が再発)←×
・治療を終えても違和感が残る(「詰め物が当たる」「うずく」など)←×
・除菌液を勧める(研究の末開発されたうがい液、1本3000円以上を毎月)←×

 残念ながら、上記の「○」のいずれかにあてはまる歯科医はあっても、すべてをカバーしているところはない。医院によってやり方や得意分野がまちまちなので、一概に良し悪しが判断できないのが実際だ。保険診療による限界もあるだろう。「?」は疑問が残る。しかし、納得できない治療結果になった場合は医院を変えるべきだ。任せっきりはよくない。意外なのは、目視で明らかに虫歯であるにもかかわらずそれを治療しない歯科医。鈍痛を訴えてから治療を始める医師がいる。また、間を置かずして治療をどんどん進める医院も注意したい。インレーでフタをしてから痛みだしたら元も子もない。その逆に、1カ月に一度など、あまりのんびりしているのもいけない。のんびりしている間にほかの歯が傷み始める。初期ならまだいいが、根管治療や難しい処置になった場合の医者選びは慎重に。いままでの歯科医がそれらに対応できるのかを確認したほうがいい。

 本稿を読んでくれている20〜30代の方々に伝えたいのは、いま、歯を大切にしてほしいということだ。磨き方をマスターし、虫歯を作らないようにしたほうがいい。まだ間に合う。その時代におろそかにすると、40代後半になってガタが出始め(あるいはさらに高齢)、連鎖的に悪くなり、治療が長引く。加齢による歯質や神経の耐久性の低下などもあるだろう。虫歯になってしまったら、最終的にたどり着くのは抜歯だ。その先の選択肢は義歯、ブリッジ、インプラントの3つしかない。若いときはいいが、中高年になるとこれは切実な問題になる。

 歯科治療が身体の衰えやストレスと重なると、気分も沈む。金はかかる、時間は取られる、痛い、苦しい、よく噛めない、でいいことはなにもない。口内環境というのはとても微妙なバランスで成り立つ世界だ。そのバランスを崩さないように心がけるべきだ。喪ったら二度と戻らないし、悪くなると同時多発的に傷みだす。しかし一方で、五十年も使ったのだからガタが来て当然。あるいは、虫歯になったら結局進行は止められない。そのように現実を受け入れることも必要かという思いもある。私はいま、もがきとあきらめの狭間にいる。これはなかなかにしんどい。

 
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糸井重里は戦わない [メディア]

 数年前になるが、安倍総理を批判する目的で1枚のポスター画像がネット上に出回った。日本人と思われる二人の兵士が左右に分かれて立ち、中央を空けながら、見る側をそこへ手で誘導している。そして以下のコピーが記されていた。

「まず、総理から前線へ。」

 自民党による強引な集団的自衛権の閣議決定が迫るときだったか、「そんなに戦争がしたいのならまず総理からどうぞ」というような意味で、安倍総理を揶揄するのに最適なビジュアルとして、このポスター画像がTwitterやFacebookに現れた。今はなき天野祐吉氏もこの広告を支持した[*1]。

 最初はだれが作成したのか分からないままに関心を集めていたポスターだが、そのうちに作者はあの糸井重里氏であることが判明する(デザインは浅葉克己氏)。以前「広告批評」誌の反戦広告特集の中で掲載されたものだったらしい。それを知り、「糸井重里も戦争にまい進する政権に否を表明しているのだ」と皆で認識し、私もそう思った。しかしその後、糸井氏はこの広告を作ったのは本意ではないと語ったとの話が伝わってきた。行きがかり上仕方なく制作したもので、「戦争に対する考えが深まっていない」「鳩の絵を描けば平和っていうのと同じ感じで引っかかります」という。

 たしかに事はそう単純ではない。安倍総理一人が旗を振ったところですぐに戦争が始まるわけではなく、憲法を改変し、戦争によって利益を享受できる多くの人間が関わることで、「平和」状態から「戦争」状態になる。表面的なコピーであり、糸井氏がいうことも分かる。しかし一部の日本人は糸井氏の懸念(ややこしさを含め)にすでに気づいているはずだ。戦争には市民の意識も加担することや、もはやピースサインや鳩の絵で平和を確保できる時代ではないことに。

 私は'80年代から「まず総理から前線へ」否定に至るまでの糸井氏を「通し」で振り返った。西武百貨店などの秀逸なコピーにとどまらず、'80年代のビックリハウスや矢野顕子、坂本龍一らとの仕事(主に歌詞)に傾倒してきたし、糸井氏が司会をしたNHKの若者向け番組「YOU」も全てではないが、よく観た。内容はすっかり忘れたが、著作も「私は嘘が嫌いだ」や対談集など、何冊か読んでいる。テレビに登場すると服装から一見して一般人的だが、それまで会ったことのないタイプの思考を備えた人間として、好感をもった。「YOU」においては、番組の最後に言う「今回も結論は出ません」がいつも口癖だったのを覚えている。当時は、テーマに対して番組制作サイドが提示するごく単純な締めとしての結論は、要するに「やらせ」に近いからだと理解し、それを日常レベルに落とし込める才能を持った人だと思っていた。

 その後、徳川埋蔵金探しや二千円札企画、ゲーム「マザー」の制作などで名前を見ることはあったが、しばらく目立った活動がなかった。そのうちに「ほぼ日」で再び注目を集めはじめる。

 糸井重里氏は「罠」にはまらない。ヨーロッパの歴史では、いわゆる自由と人権(自然権)というものは市民が王や貴族といった権力者と戦って得たものだ。だまっていて自動的に手に入った代物ではない。そうしてつくられた憲法は権力者の暴走を抑えるために存在する。国家は巨大な暴力装置の側面を持ち、これに縄をつけなければきわめて危険だ。自由や人権を守るために権力者である総理や政権をチェックし批判することは「戦い」になる。しかしこの戦いは、その国に住む人々のあらゆる考えや行動が絡み合っている点で、これもまた単純なものではない。その複雑なものを単純化したとき、別の権力が生まれる危険、いわば「罠」に陥る可能性を含んでいる。欧米から輸入した憲法の考え方や国民主権が日本人の血肉になったかどうかは別の話題だが。

 糸井氏は、罠を察知し、回避する能力において人並み外れていると思う(「徳川埋蔵金探し」や「二千円札」こそ罠だと言えるかもしれないけれど)。浅慮で声高なものに対する用心。いかなる思想信条やイデオロギーにも寄り添わず、反権力行動にも加わらない。向こう側とこちら側が容易に入れ替わることを知っている。議論や論争はしない、と公言する。彼は戦わない人だ。戦いには参加せず、熟慮をもって平易な言葉を紡ぐ。この人の著書「小さいことばを歌う場所」(2011年3月刊)に書かれている言葉。

「なにかにつけて、怒るのは苦手です。自分の場合は、怒るよりも、悲しみのかたちになってしまうようです」

 さて、この「悲しみ」とはどういうことか。「怒るのは疲れる」からなのか、あるいは「怒りを向けてもなにも変わらない」なのか[*2]。彼の言葉は人を責めたり、自らを誇示する目的には用いられず、たぶんすべての人間に向けて優しい。糸井氏のTwitterのフォロワー数が230万人を超えていることがそれを物語る。

 ところで、罠にはまらないと述べたが、はたして、人間は罠や落とし穴にはまらずに進むことはできるのだろうか。社会における活動、行動である以上は、必ずなにかしらの罠を踏むことになるはずだ。罠を踏まずになにができるのか、なにも壊さずに前へ進めるのか。つまり、自分を傷つけずになにかを動かせるのだろうか。他人への批判は自分へも向かう。そのとき、自分のなかのなにかが壊れるが、それは仕方がないことだ。

 若い頃はともかく、いまの糸井氏はプラカードを掲げて永田町を歩くタイプの人間でないことは確かだ。安倍政権的なものが引き起こした福島の原発事故の後も、地元の「食べて応援」を支持し、東電や国に対する批判や怒りは決して口にしなかった。そのかわりに、第一原発や東電の施設に足を運び、事故処理の状況を熱心に聞いて「ほぼ日」でレポートした。レポートは「ほぼ日」の永田氏によるもので、東電社員個人にフォーカスし、「問題は継続中で予断を許さない」という厳しい視点ではなく、東電のさまざまな欺瞞にフタをしたかなり穏やかな表現による現場報告だった(https://www.1101.com/fukushima/2016/index.html)。これは前述の「悲しみ」が元になった行動なのだろう。メンタリティとしては「祈ります」の安倍昭恵さんに近いものがある。彼女も以前辺野古基地反対派の拠点に出向き、特段「反対」するわけでもなく、説得するわけでもなく、反対派の人々に面会した。なにごとへも向き合わず。

 糸井氏の考え方を理解するために、原発事故に関する一冊の著作を読んだ。早野龍五氏との共著「知ろうとすること。」(2014年刊)。早野氏は物理学者で東大大学院理学系研究科教授。3.11の福島第一原発事故以来、Twitterから現状分析と情報発信を行ってきた科学の人だ。同書の帯には糸井氏の言葉としてこう書かれてある。「大切な判断をしなければいけないときは、必ず科学的に正しい側に立ちたい」。これは以前吉本隆明氏が原発に関して語っていたこと、「科学を進めなければ、猿の時代、原始時代にまで後退する」に近い考えだろう。

 「知ろうとすること。」で糸井氏が言っていることをかいつまんでいうと、原発事故以来声高に「放射能が危ない、福島が危ない」と叫ぶ人は科学的な知識がないまま闇雲に騒いでいるにすぎない。ここはひとつ科学的な知識をベースに危機の是非を判断しようじゃないか。そこで対談相手の早野氏がいうには、「いまの時点で明らかなのは、さまざまな調査や測定の結果、起きてしまった事故の規模にたいして、実際に人々がこうむった被ばく量はとても低かった」。率先してボディーカウンターなどの放射線計測機器をそろえ(子供用も含め)、それなりの数のサンプリング調査を行ったうえでの発言なのだが、2014年の時点で科学者がこのような発言をするのはどうなのかと疑問がわいてくる[*3](高線量の事故現場で働いて被曝・病死した消防士や兵士を別として、チェルノブイリ事故の健康被害は4年後くらいから徐々に顕在化してきたという調査結果があった)。これは科学者による安全宣言だ[*4]。はたしてそれでいいんだろうか。見える範囲での「数字」ではなく、「心」の問題として。

 早野氏がいう安全宣言への受け止め方は大きく2つになるだろう。「やっぱりね、福島は大丈夫なんだよ。風評を流すのはもうやめろ」と「そうはいっても不安は残る。健康被害はこの後出るかもしれないし、汚染地域は存在し、影響は続く」。確かに、私の知る限り、現状では福島原発事故の健康被害は顕在化していない。福島の子供の甲状腺がんの発生率が高いことに関する懸念は残るが、被曝によって人が死ぬのではないかと予測した事故直後の危惧からすれば、「意外に大丈夫だった」と私も思う。しかしそれはいくつもの幸運が重なっただけだ。また、支援のために福島県沖を航行した米原子力空母「ロナルド・レーガン」の乗組員たちの被曝は留意すべきだろう。

 もちろん知ることは大事だ。しかし、いちばん知りたかったのは3.11の当時だ。原発の状態、これからなにが起きるのか、そして汚染に対する備えや避難はどうするのか。いろいろ知りたかったことを政府や東電は公表できず、ただただ混乱するばかりだった。「科学」の側が備えていたSPEEDIの情報などは真っ先に知らしむべきことであったはずだが、結局活用されなかったことは忘れられない。

「誤った常識は不勉強の塊だなぁと思いました」

 2017年9月、BuzzFeed Newsのインタビューで糸井氏は戦後に復興を果たした広島を例にこうも語っている。不安だからといって、根拠もないままに危険を叫ぶのはたしかに悪い状況しか招かないだろう。科学に罪はないかもしれない。しかし、私が問題にしたいのはそれを使う人間の方だ。つねに人間と科学をセットで考えたい。3.11以前、科学者だったか原発技術者だったか忘れたが、何重もの安全システムを備えていることを前提として、自信満々で「原発事故が起きる確率は天文学的数字並みに低い」と語っていたことを覚えている。それが、糸井氏がいう「闇雲に怖がる」に近い心配をしていた原発反対派の人たちに対する答えだった。しかしながら私は「科学」や「正しい」を持ち出す前に、己の欲望(莫大な電気料金や税金を権益とする)を満たすために巨大な蒸気発電プラントを利用してきた一部の人間たちを見過ごすべきなのか、同じことを起こさないために今回の「罪」を問うべきなのではないかと思う。私は3.11の数年前に「Forbes」という雑誌が特集記事の中で、「日本人は原発アレルギー」と言い放ったことを覚えている。科学者が科学的な立場に立ってものをいうのはけっこうだが、自分や組織の権益を守るために科学や事実を捻じ曲げるのが問題なのだと思う。また、過去を知れば分かるが、戦争の中枢には必ず科学者が関わっている。

 不思議なことに吉本隆明氏も糸井氏も原発で長年にわたって莫大な利益を得てきた側、いわゆる原子力ムラの責任については言及せず、批判もない。自らの欲望で「正しい」を捻じ曲げてしまった人たち、具体的にいえば、3.11以前に頻繁にあった点検漏れや事故を隠しつづけてきた現場社員、津波の危険を指摘されながらその対策を意図的に怠った東電トップの方々についてはスルーしてしまっている。スルーしたうえで、「先に進もう」と言っている。この点が大いに不満だ。「科学」とはいうけれど、不具合続きの福島原発にしても、設計ミスや施工不良、重大事故は度々起こり、原子力ムラはそれらを隠してきた。「科学」の産物である原発だが、人間が後始末できない放射性廃棄物を生み出す点で破綻している。それを無害無毒なものに処理してこそ「科学」ではないのだろうか。原発産業の場合は「科学」の前に「政治とカネ」が大きく動いてきた。カネを儲けるために、大いなる矛盾を無視して国家事業をまい進する。私は原発も「戦争」の一形態だと思っている。

「放射線被害の実際」と「責任問題」は分けて考えるべきだという意見もあるだろう。しかし、それは意味がない。ちょうど、汚染地域がまだらに存在し、避難区域と居住区域を明確に区分けできないことに似ている。人と科学を分けることは不可能だ。科学は「正しい」を導き出すことができるツールだが、悪用する人間が必ず現れる。科学的調査を元にして「原発事故による放射線の影響は少なかった」と言ってもいいが、その前にやるべきことがある。まずは当事者(企業、政治家、専門家、原子力産業の受益者たち)に対して怒ること。怒るのが苦手な人は、素通りしようとしている当事者を立ち止まらせる。それをやらないと、政治家や企業の人たちは今回の人災の責任を免れ、原発事故(あるいはそれと同質の事故)はこの先に再び起きる。国や企業が責任を取らないまま、「原発事故は騒ぐほど大したことではなかったよね」という認識が暗黙のうちに生まれ、再び事故が起きたら、「悲しむ」でいいんだろうか。

 私は糸井重里氏を批判するつもりはない。熟慮し、大きな声に遮られて見えない言葉を探して見据える立場の人がいてもいいだろう、くらいに思っている。糸井氏はどこまでもポジティブで、「小さいことば」の人であり、声高に他人を批判したり糾弾するような「実力行使」はしない。それはどこか「金持ちけんかせず」に似ているが、批判や糾弾に見え隠れする不毛さに気づいているがゆえなのだと思いたい。「小さなことば」の積み重ねで業績を上げてきた。いうなれば彼は「ことばの実業家」なのだ。怒っても怒らなくても、人間社会の不幸はなくならない、という文学的結論、あるいは「諦め」に達しているのなら話は違ってくる。議論を避ける人になにを言っても無駄か。

「小さいことば」も含め、いま外に向かって勝手に言葉を発せられるのは、戦争という出来事による多くの犠牲があったからだ。理不尽に死んでいった310万人の屍の先にいまの社会がある。その反省点に立って、権力者をチェックし、暴走を食い止める必要があると思えばこそ、声を「大」にして総理を批判する。だれかがやらなければならないが、実はこれはたいそう面倒なことだ。一方で、声高な意見や批判が「小さいことば」を封じ、権力と同じ道に通じることもあり得る。ここにも十分注意を払う必要があるだろう。頭ごなしに放射能を怖がるだけでは先に進まない、放射能を怖がって立ち止まらなければ先へ進めない。そのどちらなのか、それこそ、結論は容易に出ない。ただし、「怒り」を忘れてはならないと思う。

 私は「福島に住むべきではない」とか、「福島の桃を食べるな」とは言わない。事故後にいわきに帰省したときからこれまで、現地の食材を食べている。両親が育てた家庭農園の野菜類も食べた。当時その農園の放射線量は0.2μSv/hを優に超えていたはずだが、文句を言いながらも口に運んだ。その年にいわきでつくられ、宅急便で届いたたみりん干しや梨もけっこう食べた(ただし、息子には食べさせなかった)。例外は地元で両親が採ってきた山菜としいたけだけだ。また、2011年の夏に三鷹駅前のスーパーで4個398円でたたき売られていた福島産の桃は買わなかった。福島県知事お墨付きの桃だったが、その時点での放射能計測体制に不安があったためだ。基準ベクレルも高かった。汚染地域に住むな、ということを言える立場ではないし、「住むしかない」人も大勢いるだろう。国の支援がなければ、移住は不可能だ。

「怒り」や「悲しみ」でメシは食えない。また、福島県に住む人と県外の人とでは、津波被害や原発事故に対する感じ方や考え方に大きな違いがある。県内の人は必ずしも批判的に事態を捉えているわけではなく、かといって楽観的でもない。表には出さないがかなり複雑な、容易には理解しがたい感情を抱えている。これは私が経験的に学んだことだ。以前も書いたが、私は1994年ごろ福島第一原発をはじめ、数カ所の原子力発電施設で仕事をした。原発についてはそれ以前からネガティブな印象を持っていた。3.11の原発事故については、この状況を作り出した人間たちへの怒りが心の底にずっとたまっている。しかし実際に東電社員を前にしても、その感情をぶつけることはなかった。

 糸井氏にとって安倍総理や東電を糾弾する行為は、浅はかに見えるのかもしれない。しかし、その原動力に「怒り」があるとすれば、あながち浅はかとだけは言い切れないだろう。彼が重視する「小さいことば」や「科学的に知ること」は、少なからぬ人々が感じている「不安」をよそに、強者側を肯定し、彼らが行ってきたことに与する材料になりはしないだろうか。庶民の暮らしや将来、安全よりも軍事や国家を優先する総理、利益を優先する原子力関連企業、福島に住む人々の土地を汚し、生活を壊した大手電力会社上層部、ジャーナリズムを捨てた大手メディア。ここに怒りを持たずに「悲しみ」を感じるのであれば、それはなにか間違っている。日本はすでに、なにもしなくても安全・安心が保たれる社会ではなくなった。だまっていたら、庶民は静かに殺されていくだろう。

 原子力事故によって壊された土地や人々の暮らしの中にも糸井氏がいう「小さいことば」はあったはずだし、それはいまも存在している。しかし糸井氏が被災者の後にまず訪れたのは、「事故処理がんばってます」の東電や「食べて応援」の側だった。放射線に追われて避難生活を続ける「被害者」の住まいではない。そこには彼が敬遠する「怒り」があり、訪れれば「議論」を生むからだ。そう考えると、糸井重里氏は、権力を監視する気恥ずかしい怒りや面倒くさくて不毛な議論に関わらない「自由からの逃走」を地で行っている人なのかもしれない。

まず総理から前線へ。.png

[*1]天野氏は別案の「とにかく死ぬのヤだもんね。」のほうをさらに推していた。

[*2]1981年の広告批評において糸井氏は高平哲郎氏との対談の中で、「怒ったらいくらでも書けるから、怒る文章だけは僕は書かない」「もちろん怒ることは怒るんですけどね、だけど、それは大体において見苦しいし、それに冷静に考えると、違う方法が見つかったりするんですよね、それに対処する...。だから、文章で『一緒に怒ってください』というアジテーションをする気にはならない」と語っている。

[*3]「個人被ばく線量論文、同意ないデータ使用か 東大が予備調査」(毎日新聞2018年12月27日 21時48分より引用)

 東京電力福島第1原発事故後に測定された福島県伊達市の住民の個人被ばく線量のデータを基に、早野龍五・東京大名誉教授らが英科学誌に発表した2本の論文について、東大は27日、「本人の同意のないデータが使われている」などとする住民からの申し立てを受けて予備調査を始めたことを明らかにした。

 個人線量は、同市が2011~15年ごろ、「ガラスバッジ」と呼ばれる線量計を住民に配布して測定。論文では、市の人口の約9割にあたる約5万9000人分のデータを解析し、生涯にわたる被ばく量の予測などをしている。同市は約2万7000人分について本人の同意のないまま研究者に提供したとして、経緯を調べている。

 申立書では、論文の著者の一人が所属する福島県立医大の倫理委員会に研究計画書の承認申請を行う前の15年9月に早野氏が解析結果を公表していることも国の医学系研究の倫理指針に違反していると指摘。また、図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造(ねつぞう)が疑われる」としている。

 早野氏は毎日新聞の取材に「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」とメールで回答。「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していた」として出版社に修正を要請したという。【須田桃子】

[*4]2019年1月、早野氏の科学者としての姿勢に大きな疑問が投げかけられた。
「データ不正提供疑惑・計算ミス発覚の個人被曝線量論文。早野教授は研究者として真摯な対応を」牧野淳一郎
https://hbol.jp/183049
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はしか(麻疹)の予防接種を受ける [身体]

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 4月に沖縄ではしか(麻疹)の患者が70人以上出たという。その後愛知などでも患者が確認された。連休を迎えて流行の可能性があるとニュースで報じている。私は子供のころ麻疹に感染した記憶がない。母親に聞いても曖昧だ。おたふく風邪、水ぼうそう、風疹はやっていたが、はしかは両隣の家の友だちが罹ってもたしか自分だけ無事だった。

 いつかは麻疹の予防接種を受けようと思っていたが、なかなかきっかがなかった。心臓を含め、最近体調が思わしくないため、この時期に麻疹に罹るのは避けたい。人の移動が激しい連休後に流行する可能性はある。大人になってからの麻疹は重症化すると聞いていたので、この際予防接種を受けることにした。

 私のかかりつけ医は近年、東京都医師会の偉い地位に就いており、診療外の仕事が忙しいらしく休診日が多い。さらに、4月下旬から5月連休明けまで休みだった。近所のK内科に電話で確認すると、麻疹の予防接種はやっていないという。仕方なく、市役所の保健総務課に市内で麻疹の予防接種を行なっている医院を尋ねると、把握していないのでわからないとの回答。そして、三鷹市医師会なら分かるかもしれないと、電話番号を教えてくれた。三鷹市医師会に問い合わせると、こちらも予防接種を実施している医院は把握していないという。なんだか、たよりない話だ。国分寺医師会の予防接種センターなら対応してくれるはずとのことで、連絡先を教えてもらった。

 早速予防接種センターに確認したところ、麻疹だけの予防接種は、沖縄の流行の影響もあり現在ワクチンの在庫がないという。やはり私のように考えている人が多いのだろう。ただし、麻疹と風疹の混合ワクチン「MR」ならば、すぐに接種できる。以前風疹に罹っている人がMRを受けても問題ないらしい。費用を尋ねると、麻疹単体は6000円、MRは1万円。貧乏絵描きにとって、予防措置に1万円は高いと思い、いったん麻疹単体を申し込むが、「いつになるか分からない」との話なので、背に腹は変えられず、結局MRを受けることにした。毎週火曜日と木曜日が予防接種の受付け日だという。

 連休中日の火曜に国分寺市泉町(最寄り駅は西国分寺)にある予防接種センターを訪ねた。2階に上がり、受付で2枚の書類に記入し、1万円を支払う。ほどなく中待合室に通された。体温を測り、70歳くらいのいかにも医師然とした先生に聴診器を当てられ、病歴について質問があった後、接種となった。医師一人のみで看護師はいない。小さなガラス瓶2個とビニール袋に入った注射器。これで1万円か、などと貧乏思考で小さなガラス瓶を見つめる。一方に注射器の針を挿入し、透明な液を吸い上げ、残り一方に再度注入しワクチンを振って混ぜた。それを注射器に戻して腕に注射する。脱脂綿をあてがわれ2、3分ほど押さえてくださいと言われて、部屋を出た。

 細かいことだが、左腕に接種した後に右手で接種個所の脱脂綿を押さえた場合、カバンや上着を左手で持たなければならない。接種した直後の左手で荷物を持つのはどうなのか、と思った。当然力が入る。できれば、荷物は中待合室に置いてから接種したほうがいいのではないだろうか。あるいは脱脂綿で押さえるのではなく、小さな絆創膏等で注射の跡を押さえるべきだろう。そうすれば、右手で荷物を持つことができる。

 ほかに70代くらいの夫婦が二組と、30代くらいの男性が一人待合室にいた。夫婦のうち一組は3種混合らしい。もう一組は麻疹の抗体があるかどうかの検査を希望していた(この費用は5000円)。接種が終わると、特に注意書きなどが渡されるわけでもなかった。普通であれば、接種後の注意事項(入浴や腫れなどについて)などを伝達するものだが、予防接種センターにそういう気配りはないらしい。保険外の予防接種というのはそういうものなのだろうか。

 ネットで、麻疹の予防接種は2回やったほうがいいとの情報を得たが、今日の担当医は1回でもいいという。昔は1回だったが、効果が持続しない人がいるので2回になったらしい。流行した場合などには2回やったほうがいいかもしれないとのことだった。ネットの情報では、1回の接種の効果は数年なので、2回やって効果を高めるべきだという。たぶん、抗体の出来に個人差があり、それを加味して1回あるいは2回との判断があるのだろう。もし2回目をやるときは、麻疹単体のワクチンで受けようと思う。

 今回感じたのは、「大人の予防接種」の旧態依然とした体制だ。市が配布する「健康ガイド」には大人の予防接種についての情報は記載されていなかった。旅行前の3種混合くらいなら問題ないが、流行が急に発生した場合、対応は大丈夫なのだろうか。私の知人がそうなのだが、接種を1回しか受けていない40代も少なからずいる。予防接種に保険が効かないのもどうかと思うし(MRを2回受けたら2万円になる)、いろいろな面で古さを感じた。医療の質を高めるような話までするつもりはないが、大人がもう少しスムーズに接種を受けられる仕組みづくりを希望したい。

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