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糸井重里は戦わない [メディア]

 数年前になるが、安倍総理を批判する目的で1枚のポスター画像がネット上に出回った。日本人と思われる二人の兵士が左右に分かれて立ち、中央を空けながら、見る側をそこへ手で誘導している。そして以下のコピーが記されていた。

「まず、総理から前線へ。」

 自民党による強引な集団的自衛権の閣議決定が迫るときだったか、「そんなに戦争がしたいのならまず総理からどうぞ」というような意味で、安倍総理を揶揄するのに最適なビジュアルとして、このポスター画像がTwitterやFacebookに現れた。今はなき天野祐吉氏もこの広告を支持した[*1]。

 最初はだれが作成したのか分からないままに関心を集めていたポスターだが、そのうちに作者はあの糸井重里氏であることが判明する(デザインは浅葉克己氏)。以前「広告批評」誌の反戦広告特集の中で掲載されたものだったらしい。それを知り、「糸井重里も戦争にまい進する政権に否を表明しているのだ」と皆で認識し、私もそう思った。しかしその後、糸井氏はこの広告を作ったのは本意ではないと語ったとの話が伝わってきた。行きがかり上仕方なく制作したもので、「戦争に対する考えが深まっていない」「鳩の絵を描けば平和っていうのと同じ感じで引っかかります」という。

 たしかに事はそう単純ではない。安倍総理一人が旗を振ったところですぐに戦争が始まるわけではなく、憲法を改変し、戦争によって利益を享受できる多くの人間が関わることで、「平和」状態から「戦争」状態になる。表面的なコピーであり、糸井氏がいうことも分かる。しかし一部の日本人は糸井氏の懸念(ややこしさを含め)にすでに気づいているはずだ。戦争には市民の意識も加担することや、もはやピースサインや鳩の絵で平和を確保できる時代ではないことに。

 私は'80年代から「まず総理から前線へ」否定に至るまでの糸井氏を「通し」で振り返った。西武百貨店などの秀逸なコピーにとどまらず、'80年代のビックリハウスや矢野顕子、坂本龍一らとの仕事(主に歌詞)に傾倒してきたし、糸井氏が司会をしたNHKの若者向け番組「YOU」も全てではないが、よく観た。内容はすっかり忘れたが、著作も「私は嘘が嫌いだ」や対談集など、何冊か読んでいる。テレビに登場すると服装から一見して一般人的だが、それまで会ったことのないタイプの思考を備えた人間として、好感をもった。「YOU」においては、番組の最後に言う「今回も結論は出ません」がいつも口癖だったのを覚えている。当時は、テーマに対して番組制作サイドが提示するごく単純な締めとしての結論は、要するに「やらせ」に近いからだと理解し、それを日常レベルに落とし込める才能を持った人だと思っていた。

 その後、徳川埋蔵金探しや二千円札企画、ゲーム「マザー」の制作などで名前を見ることはあったが、しばらく目立った活動がなかった。そのうちに「ほぼ日」で再び注目を集めはじめる。

 糸井重里氏は「罠」にはまらない。ヨーロッパの歴史では、いわゆる自由と人権(自然権)というものは市民が王や貴族といった権力者と戦って得たものだ。だまっていて自動的に手に入った代物ではない。そうしてつくられた憲法は権力者の暴走を抑えるために存在する。国家は巨大な暴力装置の側面を持ち、これに縄をつけなければきわめて危険だ。自由や人権を守るために権力者である総理や政権をチェックし批判することは「戦い」になる。しかしこの戦いは、その国に住む人々のあらゆる考えや行動が絡み合っている点で、これもまた単純なものではない。その複雑なものを単純化したとき、別の権力が生まれる危険、いわば「罠」に陥る可能性を含んでいる。欧米から輸入した憲法の考え方や国民主権が日本人の血肉になったかどうかは別の話題だが。

 糸井氏は、罠を察知し、回避する能力において人並み外れていると思う(「徳川埋蔵金探し」や「二千円札」こそ罠だと言えるかもしれないけれど)。浅慮で声高なものに対する用心。いかなる思想信条やイデオロギーにも寄り添わず、反権力行動にも加わらない。向こう側とこちら側が容易に入れ替わることを知っている。議論や論争はしない、と公言する。彼は戦わない人だ。戦いには参加せず、熟慮をもって平易な言葉を紡ぐ。この人の著書「小さいことばを歌う場所」(2011年3月刊)に書かれている言葉。

「なにかにつけて、怒るのは苦手です。自分の場合は、怒るよりも、悲しみのかたちになってしまうようです」

 さて、この「悲しみ」とはどういうことか。「怒るのは疲れる」からなのか、あるいは「怒りを向けてもなにも変わらない」なのか[*2]。彼の言葉は人を責めたり、自らを誇示する目的には用いられず、たぶんすべての人間に向けて優しい。糸井氏のTwitterのフォロワー数が230万人を超えていることがそれを物語る。

 ところで、罠にはまらないと述べたが、はたして、人間は罠や落とし穴にはまらずに進むことはできるのだろうか。社会における活動、行動である以上は、必ずなにかしらの罠を踏むことになるはずだ。罠を踏まずになにができるのか、なにも壊さずに前へ進めるのか。つまり、自分を傷つけずになにかを動かせるのだろうか。他人への批判は自分へも向かう。そのとき、自分のなかのなにかが壊れるが、それは仕方がないことだ。

 若い頃はともかく、いまの糸井氏はプラカードを掲げて永田町を歩くタイプの人間でないことは確かだ。安倍政権的なものが引き起こした福島の原発事故の後も、地元の「食べて応援」を支持し、東電や国に対する批判や怒りは決して口にしなかった。そのかわりに、第一原発や東電の施設に足を運び、事故処理の状況を熱心に聞いて「ほぼ日」でレポートした。レポートは「ほぼ日」の永田氏によるもので、東電社員個人にフォーカスし、「問題は継続中で予断を許さない」という厳しい視点ではなく、東電のさまざまな欺瞞にフタをしたかなり穏やかな表現による現場報告だった(https://www.1101.com/fukushima/2016/index.html)。これは前述の「悲しみ」が元になった行動なのだろう。メンタリティとしては「祈ります」の安倍昭恵さんに近いものがある。彼女も以前辺野古基地反対派の拠点に出向き、特段「反対」するわけでもなく、説得するわけでもなく、反対派の人々に面会した。なにごとへも向き合わず。

 糸井氏の考え方を理解するために、原発事故に関する一冊の著作を読んだ。早野龍五氏との共著「知ろうとすること。」(2014年刊)。早野氏は物理学者で東大大学院理学系研究科教授。3.11の福島第一原発事故以来、Twitterから現状分析と情報発信を行ってきた科学の人だ。同書の帯には糸井氏の言葉としてこう書かれてある。「大切な判断をしなければいけないときは、必ず科学的に正しい側に立ちたい」。これは以前吉本隆明氏が原発に関して語っていたこと、「科学を進めなければ、猿の時代、原始時代にまで後退する」に近い考えだろう。

 「知ろうとすること。」で糸井氏が言っていることをかいつまんでいうと、原発事故以来声高に「放射能が危ない、福島が危ない」と叫ぶ人は科学的な知識がないまま闇雲に騒いでいるにすぎない。ここはひとつ科学的な知識をベースに危機の是非を判断しようじゃないか。そこで対談相手の早野氏がいうには、「いまの時点で明らかなのは、さまざまな調査や測定の結果、起きてしまった事故の規模にたいして、実際に人々がこうむった被ばく量はとても低かった」。率先してボディーカウンターなどの放射線計測機器をそろえ(子供用も含め)、それなりの数のサンプリング調査を行ったうえでの発言なのだが、2014年の時点で科学者がこのような発言をするのはどうなのかと疑問がわいてくる[*3](高線量の事故現場で働いて被曝・病死した消防士や兵士を別として、チェルノブイリ事故の健康被害は4年後くらいから徐々に顕在化してきたという調査結果があった)。これは科学者による安全宣言だ[*4]。はたしてそれでいいんだろうか。見える範囲での「数字」ではなく、「心」の問題として。

 早野氏がいう安全宣言への受け止め方は大きく2つになるだろう。「やっぱりね、福島は大丈夫なんだよ。風評を流すのはもうやめろ」と「そうはいっても不安は残る。健康被害はこの後出るかもしれないし、汚染地域は存在し、影響は続く」。確かに、私の知る限り、現状では福島原発事故の健康被害は顕在化していない。福島の子供の甲状腺がんの発生率が高いことに関する懸念は残るが、被曝によって人が死ぬのではないかと予測した事故直後の危惧からすれば、「意外に大丈夫だった」と私も思う。しかしそれはいくつもの幸運が重なっただけだ。また、支援のために福島県沖を航行した米原子力空母「ロナルド・レーガン」の乗組員たちの被曝は留意すべきだろう。

 もちろん知ることは大事だ。しかし、いちばん知りたかったのは3.11の当時だ。原発の状態、これからなにが起きるのか、そして汚染に対する備えや避難はどうするのか。いろいろ知りたかったことを政府や東電は公表できず、ただただ混乱するばかりだった。「科学」の側が備えていたSPEEDIの情報などは真っ先に知らしむべきことであったはずだが、結局活用されなかったことは忘れられない。

「誤った常識は不勉強の塊だなぁと思いました」

 2017年9月、BuzzFeed Newsのインタビューで糸井氏は戦後に復興を果たした広島を例にこうも語っている。不安だからといって、根拠もないままに危険を叫ぶのはたしかに悪い状況しか招かないだろう。科学に罪はないかもしれない。しかし、私が問題にしたいのはそれを使う人間の方だ。つねに人間と科学をセットで考えたい。3.11以前、科学者だったか原発技術者だったか忘れたが、何重もの安全システムを備えていることを前提として、自信満々で「原発事故が起きる確率は天文学的数字並みに低い」と語っていたことを覚えている。それが、糸井氏がいう「闇雲に怖がる」に近い心配をしていた原発反対派の人たちに対する答えだった。しかしながら私は「科学」や「正しい」を持ち出す前に、己の欲望(莫大な電気料金や税金を権益とする)を満たすために巨大な蒸気発電プラントを利用してきた一部の人間たちを見過ごすべきなのか、同じことを起こさないために今回の「罪」を問うべきなのではないかと思う。私は3.11の数年前に「Forbes」という雑誌が特集記事の中で、「日本人は原発アレルギー」と言い放ったことを覚えている。科学者が科学的な立場に立ってものをいうのはけっこうだが、自分や組織の権益を守るために科学や事実を捻じ曲げるのが問題なのだと思う。また、過去を知れば分かるが、戦争の中枢には必ず科学者が関わっている。

 不思議なことに吉本隆明氏も糸井氏も原発で長年にわたって莫大な利益を得てきた側、いわゆる原子力ムラの責任については言及せず、批判もない。自らの欲望で「正しい」を捻じ曲げてしまった人たち、具体的にいえば、3.11以前に頻繁にあった点検漏れや事故を隠しつづけてきた現場社員、津波の危険を指摘されながらその対策を意図的に怠った東電トップの方々についてはスルーしてしまっている。スルーしたうえで、「先に進もう」と言っている。この点が大いに不満だ。「科学」とはいうけれど、不具合続きの福島原発にしても、設計ミスや施工不良、重大事故は度々起こり、原子力ムラはそれらを隠してきた。「科学」の産物である原発だが、人間が後始末できない放射性廃棄物を生み出す点で破綻している。それを無害無毒なものに処理してこそ「科学」ではないのだろうか。原発産業の場合は「科学」の前に「政治とカネ」が大きく動いてきた。カネを儲けるために、大いなる矛盾を無視して国家事業をまい進する。私は原発も「戦争」の一形態だと思っている。

「放射線被害の実際」と「責任問題」は分けて考えるべきだという意見もあるだろう。しかし、それは意味がない。ちょうど、汚染地域がまだらに存在し、避難区域と居住区域を明確に区分けできないことに似ている。人と科学を分けることは不可能だ。科学は「正しい」を導き出すことができるツールだが、悪用する人間が必ず現れる。科学的調査を元にして「原発事故による放射線の影響は少なかった」と言ってもいいが、その前にやるべきことがある。まずは当事者(企業、政治家、専門家、原子力産業の受益者たち)に対して怒ること。怒るのが苦手な人は、素通りしようとしている当事者を立ち止まらせる。それをやらないと、政治家や企業の人たちは今回の人災の責任を免れ、原発事故(あるいはそれと同質の事故)はこの先に再び起きる。国や企業が責任を取らないまま、「原発事故は騒ぐほど大したことではなかったよね」という認識が暗黙のうちに生まれ、再び事故が起きたら、「悲しむ」でいいんだろうか。

 私は糸井重里氏を批判するつもりはない。熟慮し、大きな声に遮られて見えない言葉を探して見据える立場の人がいてもいいだろう、くらいに思っている。糸井氏はどこまでもポジティブで、「小さいことば」の人であり、声高に他人を批判したり糾弾するような「実力行使」はしない。それはどこか「金持ちけんかせず」に似ているが、批判や糾弾に見え隠れする不毛さに気づいているがゆえなのだと思いたい。「小さなことば」の積み重ねで業績を上げてきた。いうなれば彼は「ことばの実業家」なのだ。怒っても怒らなくても、人間社会の不幸はなくならない、という文学的結論、あるいは「諦め」に達しているのなら話は違ってくる。議論を避ける人になにを言っても無駄か。

「小さいことば」も含め、いま外に向かって勝手に言葉を発せられるのは、戦争という出来事による多くの犠牲があったからだ。理不尽に死んでいった310万人の屍の先にいまの社会がある。その反省点に立って、権力者をチェックし、暴走を食い止める必要があると思えばこそ、声を「大」にして総理を批判する。だれかがやらなければならないが、実はこれはたいそう面倒なことだ。一方で、声高な意見や批判が「小さいことば」を封じ、権力と同じ道に通じることもあり得る。ここにも十分注意を払う必要があるだろう。頭ごなしに放射能を怖がるだけでは先に進まない、放射能を怖がって立ち止まらなければ先へ進めない。そのどちらなのか、それこそ、結論は容易に出ない。ただし、「怒り」を忘れてはならないと思う。

 私は「福島に住むべきではない」とか、「福島の桃を食べるな」とは言わない。事故後にいわきに帰省したときからこれまで、現地の食材を食べている。両親が育てた家庭農園の野菜類も食べた。当時その農園の放射線量は0.2μSv/hを優に超えていたはずだが、文句を言いながらも口に運んだ。その年にいわきでつくられ、宅急便で届いたたみりん干しや梨もけっこう食べた(ただし、息子には食べさせなかった)。例外は地元で両親が採ってきた山菜としいたけだけだ。また、2011年の夏に三鷹駅前のスーパーで4個398円でたたき売られていた福島産の桃は買わなかった。福島県知事お墨付きの桃だったが、その時点での放射能計測体制に不安があったためだ。基準ベクレルも高かった。汚染地域に住むな、ということを言える立場ではないし、「住むしかない」人も大勢いるだろう。国の支援がなければ、移住は不可能だ。

「怒り」や「悲しみ」でメシは食えない。また、福島県に住む人と県外の人とでは、津波被害や原発事故に対する感じ方や考え方に大きな違いがある。県内の人は必ずしも批判的に事態を捉えているわけではなく、かといって楽観的でもない。表には出さないがかなり複雑な、容易には理解しがたい感情を抱えている。これは私が経験的に学んだことだ。以前も書いたが、私は1994年ごろ福島第一原発をはじめ、数カ所の原子力発電施設で仕事をした。原発についてはそれ以前からネガティブな印象を持っていた。3.11の原発事故については、この状況を作り出した人間たちへの怒りが心の底にずっとたまっている。しかし実際に東電社員を前にしても、その感情をぶつけることはなかった。

 糸井氏にとって安倍総理や東電を糾弾する行為は、浅はかに見えるのかもしれない。しかし、その原動力に「怒り」があるとすれば、あながち浅はかとだけは言い切れないだろう。彼が重視する「小さいことば」や「科学的に知ること」は、少なからぬ人々が感じている「不安」をよそに、強者側を肯定し、彼らが行ってきたことに与する材料になりはしないだろうか。庶民の暮らしや将来、安全よりも軍事や国家を優先する総理、利益を優先する原子力関連企業、福島に住む人々の土地を汚し、生活を壊した大手電力会社上層部、ジャーナリズムを捨てた大手メディア。ここに怒りを持たずに「悲しみ」を感じるのであれば、それはなにか間違っている。日本はすでに、なにもしなくても安全・安心が保たれる社会ではなくなった。だまっていたら、庶民は静かに殺されていくだろう。

 原子力事故によって壊された土地や人々の暮らしの中にも糸井氏がいう「小さいことば」はあったはずだし、それはいまも存在している。しかし糸井氏が被災者の後にまず訪れたのは、「事故処理がんばってます」の東電や「食べて応援」の側だった。放射線に追われて避難生活を続ける「被害者」の住まいではない。そこには彼が敬遠する「怒り」があり、訪れれば「議論」を生むからだ。そう考えると、糸井重里氏は、権力を監視する気恥ずかしい怒りや面倒くさくて不毛な議論に関わらない「自由からの逃走」を地で行っている人なのかもしれない。

まず総理から前線へ。.png

[*1]天野氏は別案の「とにかく死ぬのヤだもんね。」のほうをさらに推していた。

[*2]1981年の広告批評において糸井氏は高平哲郎氏との対談の中で、「怒ったらいくらでも書けるから、怒る文章だけは僕は書かない」「もちろん怒ることは怒るんですけどね、だけど、それは大体において見苦しいし、それに冷静に考えると、違う方法が見つかったりするんですよね、それに対処する...。だから、文章で『一緒に怒ってください』というアジテーションをする気にはならない」と語っている。

[*3]「個人被ばく線量論文、同意ないデータ使用か 東大が予備調査」(毎日新聞2018年12月27日 21時48分より引用)

 東京電力福島第1原発事故後に測定された福島県伊達市の住民の個人被ばく線量のデータを基に、早野龍五・東京大名誉教授らが英科学誌に発表した2本の論文について、東大は27日、「本人の同意のないデータが使われている」などとする住民からの申し立てを受けて予備調査を始めたことを明らかにした。

 個人線量は、同市が2011~15年ごろ、「ガラスバッジ」と呼ばれる線量計を住民に配布して測定。論文では、市の人口の約9割にあたる約5万9000人分のデータを解析し、生涯にわたる被ばく量の予測などをしている。同市は約2万7000人分について本人の同意のないまま研究者に提供したとして、経緯を調べている。

 申立書では、論文の著者の一人が所属する福島県立医大の倫理委員会に研究計画書の承認申請を行う前の15年9月に早野氏が解析結果を公表していることも国の医学系研究の倫理指針に違反していると指摘。また、図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造(ねつぞう)が疑われる」としている。

 早野氏は毎日新聞の取材に「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」とメールで回答。「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していた」として出版社に修正を要請したという。【須田桃子】

[*4]2019年1月、早野氏の科学者としての姿勢に大きな疑問が投げかけられた。
「データ不正提供疑惑・計算ミス発覚の個人被曝線量論文。早野教授は研究者として真摯な対応を」牧野淳一郎
https://hbol.jp/183049
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