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画家が死んだら [芸術]

 今夏オープンした近所の貸し画廊に行った。70代後半くらいの女性画家の個展が開かれており、会場をひとまわりして展示を見終わったのち、作家とそのご主人の三人でしばらく話をした。聞けば、夫婦とも画家だという。いまは郡山に住んでいて、より多くの人にみてもらうために今回三鷹の画廊を借りたとのこと。
 同じ県の出身だったので、作家活動や地元の画家などについて語り合った。その際、作品の制作場所や保管場所に話題がおよび、ご主人は少し湿った声で、自分が死んだら作品をどうしようかと思っていると言った。その方は知名度のある絵画団体に所属している。
 このご時世、作品は以前ほど売れなくなった。友人、知人の個展を見ても、売れるのは展示の1、2割といったところだろうか。しかも赤ピンが付くのは低価格の小品が多い。私は、いまだ作品に値段を付けて展示したことがないため、画廊で正式に絵を売った経験はない。描いたものは当然部屋にたまっていく。油彩画にいたってはつぶして上描きだ。以前個展をやったときは、せっかく額装したのだからと思い、多少ましなものを親戚や知人にあげた。まだ買い手がつくほどの作品はない。
 世間の画家は作品の保管をどうしているのだろう。ある程度は画室にためておけるだろうが、それも限度がある。100号程度の絵を年に数枚描いただけでたいへんだ。金があれば、倉庫でも借りるのかもしれない。前述のご夫婦の場合、二人で画家なので、単純に二倍のスペースを要する。ご主人は、さてどうしたものかとあてのない表情をした。「それでも描き続けているんだから」と半分あきれながら、笑った。
 同じような話を以前、やはり年配の男性から聞いたことがある。その人は退職したのち自分でも絵を描き始めたが、サラリーマン時代は芸術作品を買うのが趣味だった。それで、けっこう値の張る絵画や彫刻、陶器をいくつか持っており、それらについて「僕が死んだら、嫁さんに二束三文で処分されるのかな」などと半分自嘲気味に言っていた。
 絵描きは、自分が死んだ後の作品のことを考える。それは切実な問題なのだ。以前テレビで放映されたある女性画家は、自らの死後を思い、自宅の倉庫にたまった膨大な油彩画を1枚ずつばらして処分していた。悲痛な表情だった。それをみて、なんともやりきれない気分になったことを覚えている。
 売れた作品やもらわれていった作品は幸せだ。それでも、その先のことはわからない。購入した人が価値を見いだしても、その家族が同様に考えるかどうか。画家の自宅に残った作品群は多くの場合、妻や子供に託すことになる。画家の仕事に理解のある家族であれば、その後も作品は保管されるだろう。しかし、作品に価値を見いだせない家族であった場合、すぐさま処分されてしまう可能性が高い。ちなみに私の場合、妻は絵の好みが違うという理由で、私の絵にまったく興味がない。ときどき絵を見せて「どうだい?」と訊くと、「普通」という答えが返ってくる。これでは将来先に死ぬわけにはいかないだろう。
 多くの画家、いやほとんどの画家は、自分の作品に自信を持っている。いまは価値が認められなくても、いつかは、ひょっとして死んでから評価されるかもしれない、という希望を抱く。それは当然だ。そうでなければやっていけない。名だたる巨匠をはじめ、生存画家では27億円で作品が売れたゲルハルト・リヒターやダミアン・ハースト、草間彌生のように「アガリ」にたどり着けばしめたものだ。そう考えると、作品を残すということは、なんだか生存競争のようにも思えてくる。まるで、自分の遺伝子を残すための戦いのように。もっとも、画家にとっていちばん大切なのはいま対峙している仕事、つまりは精神のありようなのだが。
タグ:画家
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熊谷守一の絵 [芸術]

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「白猫」

 熊谷守一の油彩画にときどき出会う。美術館の常設展示や老舗の画廊、あるいは画集の中で。出会うというよりは、突然現れるといったほうがいいだろうか。今日、古書店で購入した現代美術の展覧会のカタログには「石亀」というタイトルの作品がぽつんと掲載されていた。この人の油彩画の特徴は、渋みがありながら柔らかい色調と、単純化した色面だ。ここではその色面について書いてみたい。
 少々乱暴な言い方をすれば、絵における描画の要素は通常、面と線に分けられる。線を描いて面を重ねる、あるいは面で構成して線で整える、といった仕事の仕方があるだろう(これはあくまで筆の運びの話だが)。
 さて、この手法からすれば、熊谷守一の描画は特異である。モチーフを面(プラン)で描いてはいるが、それらの面はいずれも接合していない。そこには必ず「間」があるのだ。つまり、重なりがない。しかも単なる間ではなく、その間自体にも色(主に赤)が付けられており、それはもはや線とはいえない要素になっている。構造としては、赤い間の部分を線状に描き、その上に色面を厚塗りで載せている。
 面でも線でもないもの。それは隙間か、あるいは地か。これにより、この画家の絵には、画面全体に均質な造型が生まれる。思索と注意深い視線に基づく形が地のような線によって決められ、面が置かれ、対象を単純化し、記号的な独特の画面を構成する。
 熊谷守一の絵には、プロセスはいっさい描かれていない。どのように感じて描いたかというような過程をまったく排除している。そこにあるのは、彼が対象を見つめた末に発見した形であり、絵画世界だ。注意深く視ることによってつかんだ面と面の独自のバランスと、間による絵画。これは容易には到達できない仕事だと思う。

タグ:熊谷守一
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Oxygen [芸術]

 Kenji Taki Galleryの村岡三郎展を再び見る。訪れるのはこれで3度目。
 白く塗られた6本の酸素ボンベによる作品「Oxygen」。以前も紹介したが、その存在感が強く印象に残る。感というよりも、むき出しの「存在」そのものだ。人の高さほどのボンベの重量感がそのまま存在につながる。静寂の中にたたずむ6本は高さや形状がいずれも微妙に異なり、このわずかな違いが生物の多様性を感じさせた。それぞれには、(人間が名付けた)生物の名前が刻印されている。
 Oxygenは最初に広島で発表されたとのこと。原子爆弾が投下された街で展示されるのを前提に作られた作品。それを思うと、名前が刻印された生物たちは、圧倒的な暴力によって消し去られたという新たな視点が自分の中に生まれる。Oxygenを展示した美術館のキュレーターは語ったという。原子爆弾がそれまでの兵器と異なるのは、人間だけでなく、それ以外のあらゆる生物を抹消する力を持ったということだ——と。
 生物に必要な酸素を封入したボンベは、墓標になり、また救いにもなる。あるいは、生物を考える起点になり得る。同時に、傲慢な人間の姿も浮かび上がってくる。しかし政治的なメッセージではない。日常の中に立ち現れる新しい視点と感動。衝撃。これこそが、現代美術が持ち、われわれに作用する大きな特性だろう。
 私は引き寄せられるように、Oxygenを見た。白い壁とグレーの床のギャラリーにたたずむ。6本のオブジェとギャラリーの匂い、静けさ。作品とともにあるゆっくりと流れる時間に、なぜか安らぎを覚えた。

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Kenji Taki Gallery・村岡三郎展 2010.9.3 - 10.9 TOKYO
http://www.kenjitaki.com/muraoka10tokyo/muraoka10t_01.html
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