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こぶし [世界]

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 振り上げたこぶしのなんと弱々しく、空疎なことか。戦争は無骨な軍人が始めるのではなく、一人の男の粗末な妄想が引き起こす。特別な待遇を受け、特別な場所にいて、市民生活や社会のことなど露知らぬ人間が自衛隊と市民を他国の戦場へ送り出す。
 今日、与党が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。
 「国民の生命を守るため」は詭弁だ。実は米国の戦争ビジネスに参加するための意思表示にすぎない。妄想とビジネスが交じり合って奇妙なかたちになった。この男が差し出した左手だ。握ったこぶしを広げるとそこにはたぶんなにもない。
 自由を生きることができず、憲法を踏みつける者たち。自由を生きるには相当な勇気がいる。しかし、それをあきらめてはならない。戦争は、自由を最初からあきらめた者たちが始める。そしてその代償を金に求める。原発、基地、武器、戦闘、すべては商品。おかしなことに、本人たちにその自覚は薄い。
 明白なのは、彼らは決して戦場へ行かないということだ。首相と呼ばれている男が握った薄っぺらで貧しいこぶしはだれに向けられたものなのか。同じく今日、米軍普天間基地移設の施設解体工事が始まった。姑息である。

原子と遺伝子 [世界]

漠然と感じることだが、
人間は原子や遺伝子に手を加えてはいけないのではないのか。
そこは人智の及ばぬ次元であり、
なにも分かっていない者がいじれば、この世界のバランスが崩れる。
極小の世界だからと甘く見てはいないだろうか。
ミクロとマクロはつながっているのだ。
このつながりのバランスを制御できるほどの力量を人間は持っていない。

生物は円環、循環の中でこそ生息できる。
だれもたのんでいないのに、遺伝子を組み替える人がいる。
遙かな時間をかけて出来上がっているのが遺伝子だ。
それが生命をつないでいる。
人間に遺伝子をいじられた生物は、その円環から早晩外れるだろう。
円環から外れた生物を身体に取り込んだら、
今度は身体の細胞が軌道から外れていく。

科学技術は修正を繰り返しながら進歩していくものだ、という人がいる。
しかし、修正が通じない世界があると私は思う。
世の中にはやり直しがきかないこともあるのだ。
核分裂で生成される放射性核種は、本来この地球上に存在しない。
この物質は放射線を発し、それが収まるのはものによっては数十万年かかる。

最先端技術の原子力発電を否定することは、大昔に戻ることだという人がいる。
石器時代に戻るわけでもあるまいし、末代にまで迷惑をかける放射性物質と引き替えの
少しぐらいの電力不足がなんだというのか。
最先端といいながら、要するに巨大なやかんだ。
蒸気機関に未来を託す人の思考がわからない。

放射線は遺伝子を切断する。
はるかな時間をかけてつないできたものを容赦なく切り離す。
それはつまり数億年を経て続く生物の時間を切断することだ。
それでも原子力が必要なのか。
切り離すのは遺伝子ばかりではない。
放射性物質で汚染された地域では、人や動物のつながりも分断されている。
不安で曇る人の気持ちが切れていく。

この世界のバランスを保っているのは人間ではないし、神でもない。
それがなんなのか、人間は永久にわからない。
自分たちの時間がいつまでも続くと思っているのが人間だ。
自分たちだけは特別だと思っている。
しかし地球も、そして太陽もいつかは終わりを迎える。

国家は必要悪? [世界]

 いまだに、国民の安全を守るのが国の役目だと言う人がいる。国家は必要悪であり、そこに住む人々ではなく、国という器を守るためだけに在ることを忘れてはいけない。この器は、他国からの侵略を防ぐ役割こそ果たすが、それ以上のものではない。市民から税金を搾取して自らの蓄財を増やし、大企業と癒着し、法を呑み込み、一握りの富裕層を優遇する。災害以上の害悪を及ぼすのがその正体だ。それ以上の能力は持っていない。
 例えば、今回の原子力事故。その原子力事故の際に活用されるべく、百億円以上の費用をかけてつくられた「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」がある。このシステムは、地形や風の影響による放射性物質の不規則な拡散を予測できる。福島第一原発が爆発した際、同原発に近い浪江町の住民は政府から特別の情報を与えられず、放射性物質が流れた北西方向に避難してしまった。本来であれば、北西以外の方角に逃げれば、人々は無駄な被曝をせずに済んだ。
 政府は非常に大雑把な同心円での避難区域設定を行った。後日わかったことだが、当時の首相とそのブレーンはSPEEDIの存在を知らなかったのだという。火事が起きたとき、現場の近くに消防車と水があるのにそれを知らなかったのと同じである。さほどに、近代の国家とは間抜けな存在なのだ。
 その愚かさは太平洋戦争を始めて数百万の日本人を無駄死にさせたことでも明らかだ。要するに国家がなにかをやるとロクなことがない。それが国民の総意だという人もいるだろう。はたしてそうなのだろうか。私は国民という言葉が嫌いなので市民というが、市民はそれほど馬鹿ではない。
 国家を運営する政治家や官僚たちは試験勉強の点数を得ることはできるが、つまり自分の利益のための研鑽は積むが、それ以外の能力はない。重要なのは、試験の点数をかせぐための記憶力よりも、想像力だ。周知のとおり、役人の想像力は乏しい。要するに、他者になにがしかの利益と幸福を与える仕事や、災害などを予防する仕事には向いていない。それを自覚せずに、自分を偉いと思っているから始末が悪い。
 では、他国の侵略を防ぐために国家という器さえあればいいのだろうか。3.11以降の政府の行動を見るにつけ、もはや器の役割すら彼らに任せていては危険すぎることが明らかになった。この器は、不測の事態があると突然ひっくり返って市民を放り出す。他国の侵略以前の話だ。仮に今回の福島第一原発が格納容器や圧力容器の爆発に至っていたら、SPEEDIさえ知らない政府の対応のまずさによって大勢の市民の生命が奪われたことは想像にかたくない。事故のきっかけは東電だけでなく国家(特に経済産業省)にも責任があったわけだし、今後、自然災害や戦争のような不幸は思わぬかたちに姿を変えてわれわれに迫ってくるだろう。そのときにいまの国家の在り方や仕組みではまったく心許なく、危ない。省庁などが縦割のため情報の共有がなされず、信じられないことが容易に起きる。
 災害や戦争(のようなもの)は完全に防ぐことはできないにせよ、その被害を最小限に食い止める計画は立てるべきだ。計画を立案・実行するにあたってはいまの国家の仕組みや人材では力不足。市民やNPO、企業などが参加した新しい枠組みが必要となる。政治家や官僚に任せて、文句だけ言っていればいい時代は終わった。
 

放射能と6号線 [世界]

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 福島県の浜通り地方に住んでいる人にとって最も馴染みの深い道路、それは国道6号線だ。太平洋沿岸に並行して南北に伸びるこの道は、浜通りの要ともいえる重要な交通路であり、生活のうえでも、産業においても欠かせない。

 正確にいうと、6号線の始点は東京・中央区、終点は宮城県仙台市となる。まだ常磐自動車道がなかった時代、東北の太平洋岸の人々は、皆この道を使って関東との間を往復した。私も子供のころは父や親戚のクルマに乗り、6号線を通って東京に行った。また休日には6号線を北上して祖父母の家に行き、夕方になるとこの道沿いの浜辺を散歩したものだ。

 浜通りの南端に位置するいわき市にはその昔、文藝春秋などと同じ判型の「6号線」という名の文化的な地方誌があり、市内の人などが中心になって、郷土にまつわる記事を執筆していた。私の祖父もその一人だ。6号線は、地元の人間にとって、それだけ親しまれた道なのだ。その道も現在、地震被災と原発事故の影響下にある。6号線は福島第一原発から西に約2km離れた場所を通る。

 今日YouTubeで、ビデオジャーナリストの神保哲生氏(videonews.com)が投稿した映像を見た。福島第一原発からおよそ30kmの地点をスタートして6号線をクルマで北上し、避難区域を通って、最終的に第一原発の建物が見える1.5km地点までの区間を捨て身で進む取材だ。クルマには放射線測定器を付け、数値を確認しながら進む。途中に通過した富岡町(第一原発から約8.5km地点)における放射線量は約5マイクロシーベルトだった。

 私も富岡には何度か行ったことがある。ビデオに映る町は、一見通常の風景となんら変わらないように見える。日常と異なるのは、人がいないこと、そして犬たちが群れ、牛が放牧状態になっていること。これが放射能の怖ろしさだ。目に見えず、匂いも刺激もない「なにか」が町をつつむ恐怖。SF映画のような異常事態が実際に私の故郷の近くの町で起きている。福島第一原発周辺の町はもはや日常とはかけ離れた別世界になってしまった。

 神保氏のこの取材を見ると、6号線は現在、福島第二原発付近で地震の影響により崩落し寸断されていることがわかる。そのため彼らは迂回して富岡町に入ったのだ。そして迂回路も瓦礫にはばまれ、最後は徒歩になった。第一原発から1.5km地点で放射線測定器の表示は120マイクロシーベルトを超えた。きわめて危険で、常軌を逸した取材だ。

 この映像を見て、私はいたたまれない気持ちになった。あの6号線が崩落し、原発事故によって閉ざされ、いまなお復旧工事もなされずにある。そして、その周辺の町は見えない危険にさらされている。放射能のせいで、浜通りは完全に分断されてしまったのだ。6号線が開通し、富岡や大熊、双葉などの町が元の姿を取り戻すのは、数十年後か、百年後か、あるいは永久にその時は来ないのかもしれない。亡くなった祖父がこの状況を知ったらどう思っただろう。浜通りの人々はこの未来の見えない状況を祖先にどう報告すればいいのか。津波の被害も大きく、復興は相当厳しい。原発事故による放射能汚染への警鐘はこれまで何度も鳴らされてきただけに、私はいま怒りと同時に深い無力感と喪失感を感じている。

「原発避難区域は犬や牛の群れが闊歩する無法地帯に」
http://www.youtube.com/watch?v=mHWvbisFg0I&feature=youtube_gdata_player

次は東京 [世界]

 毎日、マイクロシーベルトだのベクレルだのと放射線量の心配を続けていると、徐々に感覚がついていけなくなり、「慣れ」が出てくる。心のどこかに投げやりな鈍い気分が湧いてきて、よほどのことがない限り動じなくなってくる。本当はよほどの事態なのだが、それをあえて忘れて、日常生活の営みで包んでしまう。
 実際のところは、放射能に関する情報が錯綜しすぎて、市民皆なにがなんだかわからない状態だ。以前から原子力の危険性を指摘してきた人や海外のメディアは、恐ろしい現状認識を述べる。かたや一部の放射線や原子力の学者、政府をはじめ推進派は、安全だと繰り返す。市民に正確な情報を伝えるべきマスメディア自身が混乱している。本当に必要な情報を伝えてくれる人はいるはずなのだが、NHKや民放テレビには登場せず、そういう話にはUstreamやYouTubeにたどり着かなければ出会うことができない。
 危ないと指摘してきた人の言うとおりに事故が起きて収拾がつかなくなってしまったのだから、その人たちの言葉に真実があるだろう。私がいままで見聞きした感じでは、原子力や地震の専門家よりも、民間の人たちのほうが、現実をリアルに把握しているように思える。その現実はなにも複雑なことではない。ちょっと考えればわかることばかりだ。今回の事故に関して防災の甘さをかろうじて反省した東電だが、原子力村が考えていることは予想がつく。「ここで廃止したら、推進してきたわれわれが責任を取らされる」。
 広瀬隆氏が警鐘を鳴らすとおり、地震において危ないのは次は関東や東海だ。小田原を震源とする直下型の関東地震(小田原地震)、駿河湾を震源とするこれも直下型の東海地震。前者は73年周期で見当をつけると、1998年に起きて不思議はないという。すでにそれから13年も過ぎており、いまこの瞬間にでも発生する可能性がある。いうなれば、われわれが現在暮らすこの時間と空間は、砂上の楼閣だ。太平洋プレートという砂上。いずれにせよ、太平洋プレートの自然エネルギーのひずみは相当たまっている。
 直下型の東海地震が起きれば、その真上に建設されている静岡の浜岡原発はただちに破壊されるだろうとの見立てが一般的だ。それこそ自明の理だろう。同原発の即時停止を求める声が日増しに高まっている。以前から指摘されているように、浜岡原発が壊れれば、その放射性物質は風に乗って関東を覆う。地震で甚大な被害を受けた一帯をさらに放射性物質が襲う。そうなると東海と関東に住む市民は、自分や家族の命、あるいはいままで積み上げてきたあらゆる物や価値を喪う。
 ここで話が飛躍するが、私は絵を描く。次世代に残るような絵を描くために悪戦苦闘している。絵を描くことはすなわち自分の作品を残す仕事だ。前述の話でいくと、仮にここでこつこつと作品を残したとしても、いったん大地震が起きれば、それらはがれきの山に埋もれることになる。そして万が一作品が無事だったとしても、放射性物質が降ればだれもその絵を手にとって見ようとはしないだろう。無人の荒れ野に、見る人のない絵が晒される。それは悲しいことだ。

「Summer Time Blues」 http://www.youtube.com/watch?v=MIbrxhv_s_M
参考(4/17追加):原発の製造技術者の訴え http://www.youtube.com/watch?v=gNWVljrvl3o&feature=youtu.be

津波 [世界]

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 私は子供のころからよく津波の夢を見て、うなされた。そのイメージがどこから来たものなのかはわからない。私の故郷は東北の南側に位置する小名浜という港町だ。祖父母はその北の四ツ倉という港町に住み、そのため私にとって太平洋は常に身近にあった。太平洋の荒波に面した堤防を祖父とよく散歩し、夏は四ツ倉の海で遊んだ。「海はおっかねえがらな」という祖父母のおどかすような口癖が、子供の私の頭にいつしか刻み込まれた。海を見る私の目にはいつも、恐怖というフィルターが付いている。
 夢に出てくる津波のイメージは非常に鮮明で、突如海の彼方から巨大な津波が表れ、高い場所に必死に逃げる。子供のころの夢では、逃げおおせたと思って、高い場所から巨大な波を見るが、迫り来る津波は自分たちのいる場所よりもさらに高い。呑み込まれる寸前で目が覚め、心臓の鼓動がどきどきと耳に残る(ただし、津波は怖いだけでなく、虹色に輝き美しく描かれることも多かった)。それが大人になってからは、呑み込まれて水中でもがく場面まで見るようになった。やがて40代を過ぎるころになると、津波の夢はほとんど見なくなる。何かを忘れ去ったように。
 3月11日、東北の太平洋側で大地震が起き、大津波が海に面した多くの町々を襲った。記録された映像を見ると、津波は波というよりも、地を這う溶岩流や土石流のようだ。あらゆる物をなぎ倒し、呑み込み、人間の力ではどうしようもない強大な力を見せつける。さまざまな部材の塊に化けたようなその様には戦慄を覚える。実際に目前で見たならば、どれほど怖かったことだろう。命や建物のほとんどを奪われて、沼地のようになった町の痕跡を見ていると気が滅入ってくる。その規模はまさに想像を絶する。
 東北の人々は、親兄弟、夫や妻、子供、そして家や生活の糧を喪った。想像を絶する被害なので、途方にくれてしまう。残された被災者のことを思うとやりきれない。小名浜と四ツ倉の町も被災した。自然は人々を生かしもし、殺すこともある。それが自然であることをあらためて感じる。数年ぶりに、「海はおっかねえがらな」という、いまは亡き祖父母の言葉が蘇った。自然の中で暮らす以上は、それが小さな港町であろうと、都市のど真ん中のマンションであろうと、自然がある日突然牙をむき出す存在であることを肝に銘じる必要がある。本来われわれの記憶の底には、自然への恐れが刻み込まれている。それが私の夢に現れた。その怖さを忘れてはならない。夢が現実になってしまったことはまったく残念だが、いまはそれを受け入れるしかないのだろう。

どうする、朝日新聞 [世界]

 受験生が試験問題の解答を携帯電話とインターネットの掲示板を使って外部から得た行為が発覚し、それを朝日新聞が1面トップで報道している。1面どころか、掲載は2面や社会面にも及ぶ。ことは要するにカンニングである。それを偽計業務妨害だとかで大学が訴え、ついには仙台の予備校生が逮捕されるに至った。朝日はこの逮捕を夕刊でも1面トップで取り上げている。ずいぶんと行きすぎた報道だ。これほど大きく取り扱うべき事件なのかと疑問に思う。
 予備校生の行為がこれまでのカンニングと異なるのは、インターネットを使った点だ。朝日はどうもそれが気になるらしい。たかが一人の予備校生のカンニングを連日トップで報道するその神経は理解できない。もっと広く伝えなくてはならないことがあるだろう。先日の上関原発建設における中国電力側600人の実力行使や、各地の原発における機器の検査漏れ(東京電力発表によると、柏崎刈羽原発で375機器、福島第1原発で33機器、福島第2原発で21機器)など、重要なニュースはほかにいくらでもある。原発問題に関しては、たとえ大手新聞社といえども電力会社は大事な広告主であるから、ヘタな批判はできないのだろうと察する。それとは別に、沖縄の基地移設やロシアとの外交問題などにいたっては扱いが単発すぎる。あるいは、先日起きた日本郵便のEVカー購入契約解除によるベンチャー企業の倒産に関しても、真相を知りたい。このままでは日本のベンチャー企業は消えてなくなる。
 私は中学生のころから朝日新聞を読んできたが、近年その報道姿勢に疑問を抱くようになった。例えば、朝刊の「天声人語」や夕刊の「素粒子」では、政治家や世間で注目された人物、事件などを風刺することが多いのだが、まずはここに違和感を感じている。私は、いまの世の中で風刺の対象になり得るような人物はもはやいないと思うのだ。それほど人物に余裕はなく、社会は切羽詰まっている。朝日の記者はすでに洒落にならないことがわかっていない。さらに、社説は当たり前のことしか語らず、世の中の諸問題に正論らしきものを投げる。だが見せかけの正論なので、読み手の心にはなにも残らずといった感が強い。
 市民にとって本当に重要なニュースを押し出さずに、一介の予備校生の近隣住民や祖父から引き出した無意味なコメントを載せる行為は、メディアの仕事として疑問だ。もちろんすべての記事が悪いわけではなく、いい記事もある。しかし、肝心なところでなにかをごまかしているように見えるのだ。人々の眼をよそへそらす役割を果たしてしまっていることは、中国の言論統制とたいして変わらない状況を生んでいるのではないかと危惧する。これは朝日に限ったことではなく、ほかの新聞やテレビも同様だ。
 私は最近、Twitterやブログ、Webのニュースサイトで情報を集めることが多くなった。新聞では知り得ない事実を知ることも増えた。このままいくと新聞は、文化面とテレビ欄、スポーツ記事で事足りる存在になるかもしれない。今回のような弱い者いじめの姿勢をあらため、強いものに釘さす媒体であってほしい。
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循環型社会 [世界]

 常日頃考えていることに、地球の生態系と人間とのつながりについての懸念がある。いうまでもなく、生態系は循環しており、すべてがつながった輪の上で成り立っている(生態系ばかりではなく、気候も同様)。生物である人間も、本来はその連鎖を構成するひとつであるはずだ。ところが私たちの暮らしや社会活動を見ると、実際には大きく逸脱している。
 たとえば、果物を食べ、その皮や種をゴミ箱に捨てるとき、その行為はすでに連鎖の輪から外れているではないかと思う。同じように、料理したときに出る野菜くずや残った魚の骨はどこに行くのか。生ゴミとして捨てるそれらは、間違いなく大地には戻らない。たぶん、通常の廃棄物と同様にゴミ処理場で焼却される。本当は大地(農業)に戻すべきものだ。「ゴミ」ではない。
 あるいは、われわれが毎日排泄する大小便はどこに行くのか。昔のように、肥料として利用されることはもはやない。下水道を通り、どこぞの処理場に集められてこれもまた燃やされ、灰になるのだろう。そして、その灰はまたどこぞの土地に埋めて葬られる。大地に戻されず、そこで打ち止めだ。
 無から有が生じるはずはなく、人間が循環の連鎖を断ち切り続けていけば、いつか食料は枯渇するだろう。報道されているとおり、地球上にある農作物や動物を生み出す肥沃な土壌は減る一方だ。自明のことなのに、われわれ人間は日々、地球上にある連鎖の輪を切断し続けている。そのぶんを化学やテクノロジーで補えると思うのは幻想にすぎず、これらに頼れば将来必ず破綻する。遺伝子を解明すればすべてがわかると思うのは間違いだ。自然はわれわれの想像を超えた厳格さと謎を持っている。
 地球上に存在する連鎖に加わる方策を考えなければならないことは明らかだ。資源のリサイクルと同時に、生態系のリサイクルに参加する道筋をつくりたい。子供たちにも、小学生のうちから循環と持続性について学ばせたほうがいい。ネットワークやデジタル機器の使い道を考えるのと同時に、種や大便の利用先を見つけて輪をつなぐ。それがまっとうな進歩というものだ。

韓国の躍進 [世界]

 '96〜2004年ごろ、取材でひんぱんにPC/ITやエレクトロニクス系製品の展示会へ行っていた。場所は幕張メッセか東京ビッグサイト、ときどきアメリカ。2000年ごろまでは、出展社は米国や日本のメーカーが多数を占めていたが、それ以降になると、韓国あるいは台湾のメーカーが少しずつ増え始めた。とはいえ、ほとんどのメディア(主に雑誌や新聞記者)は米国や日本メーカーのブースに足を運び、韓国や台湾メーカーのブースは「ついで」に回る程度。面白そうな製品を発表するメーカーがあっても、パンフレットを受け取るくらいで、メディアが取材するのはせいぜいサムスンだった。

 そんな中、私は幕張メッセや東京ビッグサイトで韓国や台湾メーカーの小さなブースを訪れた際の応対に、日本メーカーとは異なる印象を受けた。それらはほとんどが新興企業で、ブースには来日した担当者が2、3人ほど座って、来場者やメディアが来るのを待っている。彼らに質問をすると、それなりに通じる日本語で応対する。中には流ちょうな日本語を話す人もいた。米国からの訪問者が来ると、今度は慣れた英語で受け答えをする。日本の展示会に来るのだから、それくらい言語が堪能なのはあたりまえかもしれないが、私が意外に思ったのは、彼らが皆若いという点だった。日本メーカーのブースの場合、大手企業であっても多言語を話す社員はまずいないだろう。せいぜい英語だ。若い世代が日本語を話すことにちょっと驚いた。

 さらに印象に残ったのは、彼らの真摯な姿勢だ。こちらの質問に120%の答えで対応しようとする。これが日米のメーカーになると、せいぜい30%くらいだろうか。展示会や発表会にもかかわらず、とおりいっぺんの答えしか返ってこず、なんだか冷めている。場合によっては、「のちほど連絡します」とか、「広報に確認してください」ということになり、対応としては「守り」だ(開発者に出会えれば話は別だが)。それに比べ、韓国や台湾のメーカーの若い担当者たちの前向きな対応には好感をもった。自分たちの製品を知らしめるための意欲が強く、熱がある。製品が面白いなどと名刺を渡せば、後日こちらの会社に訪ねてくる勢いがあった。

 現在、韓国メーカーの躍進が著しい。よくいわれるのは、その適応力だ。各国の顧客ニーズに合わせた製品づくりが的確で早いという。いわゆるマーケティングと開発部門の風通しがいいのだろう。しかしそれだけではない。彼らには熱心さがあった。これは営業活動において、第一に必要なことだ。今年に入り、家電市場においては松下やシャープ、東芝、ソニーなど日本メーカーが束になってもサムスン1社の売り上げ高に及ばない、ということが報道された。いつの間にか立場が逆転していたのだ。数年前の展示会での韓国ブースを思い出すとき、この躍進の萌芽はすでに表れていたことに気がつく。

中国の鍋と湯 [世界]

 最近の中国政府がとった一連の行動を見ていると、不可解なことが多い。理屈が通らず、強引で、国際社会から批判を浴びるような政策を進めている。特に日本に対しては、尖閣諸島の一件以来強気な姿勢を崩していない。

 これがなにを意味するかと考えると、共産党が支配しているこの大きな国が、強国ぶりを演じ続けなければならない現実にいき当たる。要するに13億人の国民に対するアピールだ。一党支配の実体は、大鍋にお湯がなみなみと入ったあやうい状態をなんとか舵取りしているにすぎない。現在の火加減は中火である。ところが、なにかの拍子に別の場所に火が付き、強火になって煮えたぎり、湯が鍋からあふれることもあり得る。中国共産党はその事態をいちばん恐れているのではないだろうか。

 天安門事件がまさにその事態だった。湯が沸騰してあふれ出したので、急いで軍事力で強引に沈静化させた。多数の学生たちを撃ち殺し、戦車で挽きつぶしたことは記憶に新しい。沸騰させないようにお湯をほどよいぬるさにしておくには、中国という国が万事うまくいっている、世界でも重要な国に成長したことを国民に示さなければならない。

 民主主義でない分、国民や少数民族をなにかしらのかたちで抑圧し国家を維持している。その代償として、自国が強国であることを明示する必要があるのだろう。間違っても、「日本に対して弱腰だ」などと国民に言わせてはならない。反発が国政に向かう事態はなんとしても防ぐ。火加減のコントロールのためには反日教育も行い、そしてデモもさせる。しかし、デモが加熱しすぎないようにする配慮も忘れない。万博が大成功だったと思わせる。中国政府というのは、そんなことに始終腐心しているのだ。とはいえ、国家というのはどこもそのような側面を持っている。アメリカが軍事力を誇るのもある意味で国内への広告宣伝だ。経済の発展は強いアメリカ(軍)が下地にあるから、というアピール。ロシアが領土問題を気にかけるのも同じ。中国は共産党一党が13億もの人民と広大な国土を束ねるために、その傾向が特に強い。

 中国は湯加減を気にするあまり、軍拡を進め、身勝手な対外政策を行う。一方でそれが行きすぎると、ゆくゆくは世界で孤立してしまう。どうにも危なっかしい。かといって、国民が目覚めて共産党に不満の矛先を向け、あの大鍋から湯がとめどなくあふれ出したら、共産党では収拾がつかず、周辺各国に影響を及ぼすかもしれない。いずれにせよ、かの国の潜在的な熱量は相当なものだ。