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山岸凉子展 「光 -てらす-」 [マンガ]

 弥生美術館で”山岸凉子展 「光 -てらす-」”を見た。
主に、扉絵とマンガの原画が、デビュー作(「レフトアンドライト」)から近作(「レベレーション」)にかけて展示された。

 私は高校生時代に雑誌「LaLa」に連載された山岸凉子の「日出処の天子」を読んで、この作家のファンになり、その後「マンガ少年」などに掲載された短編から長編までさまざまな作品を読んできた。山岸凉子の作品は、細線が冴え、余白が生きている。画面に独特の緊張感があり、物語の底流に異次元ともいえる時間がつねに流れ、ラストで深い穴の底に吸い込まれるような感覚を味わう。

 この作家は新しい視点による発想と大胆な構想力が魅力だ。
「日出処の天子」では、固定した肖像画イメージを持つ聖徳太子を中性的な超能力者に仕立て上げ、厳しいほどの自律性をもって描き、少女漫画誌に掲載した。当初は編集部に反対された[*1]というそのキャラクターは、マンガに十分親しんできた高校生が読んでも驚くべきものだった。妖艶で美しい聖徳太子など、だれが想像できただろう。しかもその人物像を、神話的な背景をふまえ、苦悩させ、高いレベルを保ちながら描ききっている。たしかに、マンガとは本来そのような跳躍する想像力を基にしたものだが、山岸凉子はそれまでのマンガにはなかった独特の描画力によって画面をつくり、物語性を高めた。

 独特の描画力をかたちづくっているのは緊張感をもった細線だ。緊張感を「厳しさ」と言い換えてもいい。比較するならば、手塚治虫の柔らかさとはまったく位相が異なる描線といえる。丸ペンによる張りつめた細線で描かれた人物が放つ身体性が第一にこの作家の作品を特徴付ける。つねに人物に焦点をあてており、極力省かれた背景は舞台説明のための小道具にすぎない。そのうえ、時間や空間を自在にあやつる手法はダイナミックである。視点やコマ割りはシンプルにもかかわらず、登場人物の深層心理をつくりこみ、ほんのわずかな線や空間が物語の深淵を暗示する。例えるなら、能や狂言に通じる世界観とでもいえばいいだろうか。山岸凉子は、強い身体性を簡素な描写によって表現できる稀有なマンガ家だ。ただし、テンションを外す所作がどこかに織り込まれている点もまた山岸マンガの魅力でもある。

 今回の展示は点数は多くないが、「アラベスク」や「妖精王」「メタモルフォシス伝」など各作品の扉絵や原画をガラス越しにじっくりながめることができる。私は細部に目を凝らし、山岸作品の秘密がなにかわかるかもしれないと思いながら見た。原画を目にし、大胆な筆致に加え、ベタを効果的に使い、衣装などの文様をていねいに描いているのがあらためてわかった。丸ペンの背で描いたのだろうか、想像以上に細い細線もあった。緻密さと緊張感に満ちた余白が高い表現レベルで共存する。描線や構図の確かさからして、日本の古典絵画や古典芸能の舞台に通じるといっても決して大げさではないだろう。さらに物語性の点でも、神話や古典(日本に限らず)に結びつく普遍性をもつ作家であることを再認識した。

山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―
場所:弥生美術館
会期:2016年9月30日(金)~12月25日(日)

山岸展チラシ.jpg

[*1]これ以前にも、すでに多くのバレエマンガが登場した後だっため「バレエマンガは古い」との編集者の反対を押し切って掲載した「アラベスク」が大ヒットした。さらにこの系譜はダヴィンチに連載された「テレプシコーラ」へとつながっていく。

大友克洋GENGA展(2) [マンガ]

 ここからは、大友克洋の仕事における革新性に焦点を当ててみたい。私が今回の原画展で注目していたことの一つは、オリジナルで見た場合細部の描き込みがどうなのかということだった。もっともそれは印刷物とさほど変わらないものであったため、特別な驚きはなかった(変わらないという点での驚きはあったが)。原画ならではの発見としては、均質感・ベタにむらがある・ホワイトの使用が少ない・スクリーントーンの使い方が絶妙、コマの枠線が粗いーーなどの点が挙げられる。
 細部の描き込みというのは、この作家の漫画を知る人なら皆知っている物体表面のディテール表現だ。例えば、コンクリートの壁を描く場合、大友以前の漫画家は、コンクリートの表面のざらつきを表現するために、細かいドットを置いたりした。かたや大友はそこに、「欠け」あるいは「ゴミ」や「チリ」を描いた。些末なことのようだが、これを最初に目にした私は驚いた。そこから感じられるリアリティーが強烈だったからだ。彼はテクスチャーを描く際、石や粒状感のある物体はドット、ガラスや鏡面は斜線、金属はキラリと光る反射ーーといったような古典的な表現手法を用いていない。独自の視点と手法によって、かなり踏み込んだテクスチャー表現を実現した。
 これと似たような手法はたとえば松本零士の漫画に見ることができる。松本零士の描くメカの表面に多く描かれるのが、通気口のスリットのような線だ。たいていは3〜4本の線で描かれ、それによってある種のメカニカルな物体のテクスチャー表現を成立させている。さらに古くは、手塚治虫や小澤さとる(青の六号)の描く宇宙船や潜水艦に加えられた区画線のようなものだろうか。ただしこれらの表現はいずれも、テクスチャーを描くという意識が希薄であったように思う。材質や表面の仕上げを感じるまでには至っていなかった。かれらの漫画においては大地の土も建物の壁もあまり変わりない。つまり、物体すなわち物質を描く意識がさほど強くなかったのだ。
 これらの先達の手法に対して、前述した大友克洋の細部の表現はまさに革新だった。欠けやチリなどを加えることで、読者に材質や硬度、表面を十分に意識させた。さらにいえば、その革新の本質は、漫画に「面」の表現を持ち込んだ点にあるといっていいだろう。細部を描き込むことによって、大地や建物、人間や動植物など、あらゆるものの表面とその材質を面(平面、曲面)で表した。面を描くということはエッジ(空間との境界線)の存在も明確にし、それによって空気感や空間を感じさせ、物体の構造や位置関係を緻密に描き分けられることになる。画面上のあらゆるモチーフの存在感を際立たせたのが、大友克洋という漫画家だ。不思議なことは、これだけディテールを表現している一方で、彼の漫画世界に登場するすべてのものが、均質に見えることだ。いうなれば、大友克洋製の粘土を用いて、物語をつくっている。「粘土」にするためには前述した丸ペンが欠かせない。しかもこの均質さを変化させることで、物語の焦点を変えている。あるいは「彼女の想いで…」「Sound of Sand」「Minor Swing」のように、均質をテーマにさえした、
 話を面に戻す。面を表すことで、画中のあらゆるモチーフのリアリティーが向上した。特にビルなどの構造物の表現が飛躍的に進化したのはいうまでもない。これによって、背景がキャラクターを描くための単なるバックではなく、巨大な「世界」になったのだ。画面の中に密度を持った世界がつくられ、そこを舞台にすることでキャラクターの存在が際立つ。さまざまな面でつくられた世界のリアリティーは従来の漫画とは一線を画し、触れられるほどだ。実際に読者は眼で彼の漫画世界に触れている。例えば、「童夢」の団地のように。大友は漫画に触覚を持ち込んだというよりも、読者の頭の中にある物体感を最高度に引き出す技術をもっている。均一な線描とスクリーントーン、そしてライティングやカメラといった映画の手法を取り入れることにより、その背後にあるリアリティーを想像させる。大友はそれを徹底した。この点でも彼は、後進に大きな影響を与えた。
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大友克洋GENGA展(1) [マンガ]

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 大友克洋が描いた漫画の原画を展示した「大友克洋GENGA展」を見た。初期から現在までの主な作品やテレビ、ポスターなどの原画が多数出品された。展示の中心は「AKIRA」のすべての原画約2300枚。ガラス製の展示ケースに整然と並べられた膨大な原画は圧倒的な存在感を放ち、会場はこの長大な物語を凝縮して体験する場となった。さて、何に圧倒されたのかといえば、その画力、すなわち描き込み、描き続ける力である。高いテンションを保った想像力とたたみかけるような筆致による絵。この作家は、非凡な想像力で構築した世界を淡々と描き表しているように見える。私はAKIRAをヤングマガジン連載第1回から購読し、単行本も購入して何度も読んではいたが、緻密に、そして膨大かつ丹念に描き込まれた原画群をあらためて目にし、この作家のたぐいまれな資質を再認識した。
 比較対象として適切ではないかもしれないが、レオナルド・ダヴィンチの人体解剖デッサンとAKIRAの原画2300枚、そのどちらかを選べと言われたら、私はAKIRAの原画を選ぶ。人類の歴史という線上の価値でみれば、前者なのかもしれない。しかし、今を生きるわれわれにとっての同時代的な「絵」の価値を考えたとき、つまり戦争や2つの原爆投下、水爆実験、殺戮、貧困、内戦が続く、破綻し矛盾した世界を経験するわれわれの現在を通過してきた絵(物語)としてみたとき、大友克洋の仕事はダヴィンチよりも重要だ。大友の想像力と描写力、そして破壊力の前では、ダヴィンチは絵が描ける科学者、あるいは発明者にすぎない。絵で本質を追求する姿勢において大友はダヴィンチに引けを取らず、芸術と同様に最前線で仕事を行ってきた。
 本人は'89年のインタビューで自分の絵について「やればボクぐらいの絵はすぐできるようになる。やろうとしないだけですよ」と言いのけているが、その資質は漫画という手法のポテンシャルを使い切り、推進することができる稀な才能だ。あるときは飄々と、あるときは地道に積み重ねられた膨大な線の存在は実におそるべき仕事だと思う。日本の歴史の流れで見た場合、古典絵画、たとえば応挙や北斎、伊藤若冲などの系譜に連なる。
 大友克洋はさまざまなテーマを取り上げながら、常に「世界」を描いてきた。四畳半に住むさえない男から、破壊された巨大都市あるいは星まで。日本人離れした奥行き表現と斬新な視覚表現でていねいに物語を紡ぐ。自らがこれまで吸収してきたものごとを丸ペンとスクリーントーンによって建築のように構築している。私は2300枚の原画を見ながら、それが建築に通じる仕事であることを感じた。自分が見て感じてきたものや日ごろ考えている構想を絵にし、その積み重ねで漫画空間を表現する。建築もまた、線画と空間で始まりイマジネーションで終わる。そのうえ大友の作品は、建築ばかりではなく、本展のパンフレットに書かれていたとおり、グラフィックやさまざまな映像表現、美術に通じる資質を備えている。
 大友作品は現代の漫画の中にあって、視覚表現が際立って鋭敏だ。この鋭敏さはもはや映画をしのいでいると私は思う。映画は瞬間瞬間に絵が過ぎて行くが、漫画は当然ながら静止画だ。彼の漫画は静止画にもかかわらず、1コマ1コマが映画のように動く。各コマに精密な時間軸がある。実際には、それを観るわれわれの脳が彼の絵を動かしているのだが、そのときの脳の動きを緻密に予測しているのが彼の絵だ。さらに彼は映画のカメラのレンズと同等の眼を持っている。マクロ、広角、望遠、高速度撮影、高感度撮影……。私はこれほどの視野を持つ作家をほかに知らない。
 彼の紡ぎだす線は数種類の丸ペンで描かれているという。その線は、古代文字や彫刻のように刻まれたものであり、すでに均質な普遍性を帯びる。普遍性をもちながら現在進行形のリアリティーを追求している。このような線を持つ漫画家は、私が知る限り彼と山岸凉子くらいだろうか。この線は、ほかのどの漫画家よりも空間と質感を意識して描いたものだ。この2つの認識が、手塚治虫との大きな違いだと思う。手塚治虫はあくまで二次元上に置かれた線であるのに対し、大友のそれは立体空間と視覚的触覚を描くために生み出された線だ。
 特筆すべきは、大友克洋の漫画の触覚性だ。彼の絵は目で触る感覚が強い。読者はストーリーを読み込み、漫画世界に同調しながら、同時にそこに描かれた物体や現象、あらゆるものに触れることができる。この点において私が思いつくのは、松本零士が描く戦闘機や戦車などの触覚性だ。それらは「触れるように描いた」先例といえる。ではなぜ、触覚的な質感で描くのか? ありていにいえば、大友克洋の眼はこの世界の物体や現象を愛しているからといえるのではないだろうか。これは彼の作家としての本質の重要な要素だ。
 大友克洋の作品世界の特徴といえば、際立ったリアリティー。これには2つの側面がある。一つは確かなデッサン力と独自の質感表現、もう一つは再構築された世界と物語のリアリティーだ。絵画表現に比べ、彼が描く物体のリアリティーは、漫画の手法上、表面的に見えるかもしれない。堅牢なデッサン力は表層的な描写に重心を置いているかのようだ。しかし、視覚におけるリアリティーの本質は実はわれわれの脳の中に存在するのであり、物体(漫画)にあるわけではない。その点で、絵画と漫画表現において上下の差はなく、一連のシーンを通してわれわれの脳内に立ち現れる世界は常になんらかの本質を生み出している。その本質におけるスケールの最小化と最大化の自在さが大友の持ち味ともいえるだろう。あるいは、その本質のカギは分解(「Fire-ball」)や再構築(「彼女の想いで…」)、破壊と再生(「童夢」「AKIRA」)にあるのかもしれない。そして、本質と画面全体に神経をゆき届かせたリアリティーの源がいったい何なのか。われわれはその秘密を知りたいと思いながら画面と対話し、同時に、物語の構成力とそれを支える想像力の緻密さに陶酔するのだ。
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テレプシコーラ [マンガ]

 山岸凉子の長編バレエ漫画「テレプシコーラ」の第2部第3巻が出た。本巻では、主人公・六花(ゆき)がローザンヌ国際バレエコンクールの準決戦に出場するまでの話が描かれている。テレプシコーラは、私が現在唯一読み続けている漫画。テクニカルなことを含めバレエをほとんど知らない私だが、子供のように続刊を心待ちにしている。
 本作では、第1部最終巻で、六花以上に有望なバレリーナであった姉・千花が自死する。その死に至るまでの展開からは目が離せず、舞台と日常との対比とともに、希望と不安が織りなす創作の世界を懸命に生きる一人の少女の姿を苛酷なまでに表現した。山岸凉子の作品に特有の、日常に潜む底知れぬ不安。創作する者が渡るのは、危うげな均衡によって成り立つ1本のロープのような道だ。その先に待つかのは希望の地か、絶望か。そしてそれがついに現実のかたちになって現れたときの衝撃。この点で本作は、文学と同等かそれ以上の生々しさを持つ。千花の死は悲しく、私は涙を流した。
 この衝撃的なエピソードに重なる音楽は、シベリウスの交響詩「トゥオネラの白鳥」である。私は、この曲を選んだ山岸凉子の作家としての創造力の確かさに感服する。トゥオネラの白鳥を聴くと、渓谷の向こうにある死の世界に一人だけで旅立つ若き踊り手の姿が目に浮かぶ。両者が表す情景はすでに私にとっては同じものとなった。
 千花を喪ったことで、六花の生命は輝きを増す。この物語は、10巻を費やした終わりから始まる物語だ。「テレプシコーラ」は千花の死によって、永遠ともいえる創造の源を得た。その点で神話的でもある。そう感じていた矢先、第3巻で登場するローラ・チャンは、千花の裏返しのような存在として描かれ始めていく。なにものをも寄せつけぬ闇をもった人物として。山岸凉子の作品では、折り紙の裏表のような二面性が幾何学模様のように立ち現れる。そこは安易なメッセージなどを差し挟む余地のない世界。この作品の奥はまだまだ深そうだ。
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