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何が変わり、何が変わらずにあるのか [原発]

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 福島第一原発が爆発して2年3カ月が過ぎた。あれから何が変わり、何が変わらずにあるのか。メルトスルーした3基の原子炉のデブリ(核燃料の塊)は暗闇の中でいまだ崩壊熱を発し、水で冷やし続けなければならない状態にある。なんとか進行を食い止めている日々。万が一その冷却装置が止まってしまったら、地獄の底から核という名の赤い悪魔が再び地上に姿を現す。
 私は、福島第一原発における放射性物質の放出あるいは漏れが収まったとは思っていない。1日当たり400トンもわき出る地下水は汚染され、原発を中心とした台地に浸透しているはずだし、完全に密閉していない建屋や高濃度に汚染された敷地や建物からはいまだ「物質」が拡散しているだろう。東電が気がつかないだけで、どこかのピットから汚染水が海に流れ込んでいる可能性さえある(2011年4月の時点では、2号機のピットからの水漏れが発見されてからわずか3日間で2万8800年分の許容量の放射性物質が排出されたと指摘する人もいた)。
 今回の事件で海や陸地などに放出された放射性物質の総量はおよそ90京ベクレルだと言われても、膨大すぎて把握できない。その一方で、動物や魚類から検出される放射線が数〜数百ベクレルという記事も目にする。どんなにわずかな量であっても、汚染された食料を身体に入れたくはないが、日々口にする食物がどのくらい汚染されているのかいないのか、いまだ見当がつかない。自宅でつくる料理はもちろん、外食の料理、弁当、飲み屋で出る刺身、水道の水など、どの程度安全なのか、あるいは危険なのか、科学技術や通信が発達し便利になったといわれる世の中で、他国がうらやむほど安全と言われている日本で、まったく不確かだ。ネットで検査結果を公表しているサイトを検索して、椎茸はやはりどこでもベクレルが高い、○○県の山菜はだめだ、○○牛乳はNDだから大丈夫らしい、サントリーの伊右衛門はNDだった、くらいの情報を得るのがやっと。日々食べる米や味噌、醤油、魚、肉などの汚染状態は知る術がない。2011年の時点で私は、時間がかかってもいずれは、国内に流通する食品のパッケージに放射能検査による安全シールが貼られることになるだろうと思っていた。実際には、情報が少なすぎて防ぎようがなく半ばあきらめて食べている——2年前の自分にそう伝えたい。
 結局のところ、原発は水で冷やし続けて現状維持、つまりは爆発以降はさほど変わっておらず(作業員の決死の仕事に支えられているが)、放射性物質で汚染された土地や食品はその実態を知らされていない。除染は移染であり、膨大な汚染土が日々蓄積されていく。食品においては政府・マスメディアともども国内産品の汚染状態を公表したり、注意喚起する気がまるでないと言っていいだろう。現実はその逆で、隠蔽に近い。この2年間三鷹の街をガイガーカウンターで計測した。事故のあった年は0.11μSv/hほどだったが、いまでは0.08μSv/h程度に下がっている(三鷹駅南口付近。ちなみに飯田橋のビル11階のフロアで0.05μSv/h)。放射性物質は徐々に移動し、汚染が低くなるところ、その逆に高まるところが出てきているはずだ。大学の調査チームが予測するとおり、「物質」は最終的に川へ流れ、海に注がれるのだろう。もはや江戸前の魚介類を食べる気はしない。
 政治家や官僚はレベル7の原発事故を軽視し、15万人におよぶ避難民を逆なでするような発言を繰り返す。再稼働を当然のこととし、原発輸出のトップセールスに首相自らが外遊する。この国を動かす連中の多くは浅はかな頭の持ち主だ。高市早苗の発言のごとく現状認識もかなり幼い。もっとも、事故直後にSPEEDIのデータを公表せず、他国からの支援を断った時点で、国家の信用度は地に堕ちている。
 現在国内で稼働している原発は大飯の3、4号機のみだ。東京は原子力発電以外の電力で充足している。この事実を認識している市民はどれくらいいるのか。あのでたらめなデモンストレーションだった計画停電を思い出すたび腹立たしい。そして、そろそろほとぼりがさめるころと見込んだのか、各地の原発再稼働の動きが目についてきた。電力会社がもぞもぞと動き始めている。
 この2年3カ月でいちばん変わったのは市民の危機意識かもしれない。引き続き汚染や原発の存在を怖れる人がいる半面、多くの人は現在継続中の重大事故を忘れはじめている。福島県浜通りにある4つの箱に背を向けつつある。大手メディアはすっかり元の木阿弥だ。危機意識を持っているのは東京新聞と福島の地元紙、日々の新聞以外にない。私は毎日福島第一原発のことを考え、放射性物質の存在を意識している。怒りと恨みと絶望が入り交じる。福島第一原発の存在を忘れ去ったとき、日本人は次の原発事故への道を歩み始める。
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会津 [地域]

 昨夜、会社の同僚と三鷹駅前の喫茶店で会った。彼女は週に一度、その店の近くのカイロプラクティクに通っている。一カ月ほど前に駅でばったり会って、そのときにいちどゆっくり話をしようと約束したのだ。
 話題は主に会社のこと。納得できない社内政治や人事を批判しあった。要するにガス抜きである。ひとしきり互いの部署の現状や考えを語ったあと、話は現在放映中の大河ドラマに移った。「八重の桜」の脚本家・山本むつみさんは、彼女の長年の友人なのだ。
 山本さんはこの脚本を書くにあたって、およそ500冊の資料を読んだという。ドラマは、会津が悲惨な戦場となる戊辰戦争のヤマ場にさしかかっている。その戦闘の終盤、武家の女性たちが自刃するシーンを書く際に山本さんは涙が止まらなかったと聞いた。
 今回の大河ドラマに対して世間では、最初はよかったが途中から話が冗長になったなどという人もあり、あまり評判がよくない。しかし私は決してそのようには思っていない。これまでの幕末や明治維新を描いた映画やドラマは、常に新興勢力の倒幕派あるいは新選組の視点で描かれており、定番のステレオタイプだ。その点で今回の八重の桜は、幕末にあっても武士の精神を受け継いでいた会津人の気質や教育の在り方、武家の女性の姿、京都守護職の任務を果たそうとした若き会津藩主松平容保の話をていねいに紡いでおり、好感をもった。長州藩や薩摩藩と同等に、あるいはそれ以上に掘り下げるべき特異性を持っていたのが会津藩だったのだと私は思う。
 山本さんのエピソードを聞いたとき、私はふと、小学校6年生の修学旅行で行った会津を思い出した。そのときは鶴ヶ城を登り、飯盛山(いいもりやま)で白虎隊の最期を聞き、会津藩士の邸宅である武家屋敷を見学した。武家屋敷は、当時の建物がそのまま保存され、武士とその家族の生活の一面を知ることができた。小学生の私は、邸宅の居室に漂うただならぬ緊張感を感じた。武士の世界には、死と隣り合わせの張り詰めた空気が常にあったのだろうと思った。さらに、武家の女性たちが自害したという部屋に案内された。ガイドの話によれば、会津での戦いの終盤、その部屋で数名の女性が刀で自害あるいは互いを刺して果てたのだという。100年も前の出来事にもかかわらず、説明を聞きながら私には、畳の上で起きたその生々しい様子が映像のように見えた。あれは子供特有の霊感のようなものだったのかもしれない。
 同僚にそのときの気持ちを伝えようとしたとき、私の目には意外にも涙がこみ上げてきた。同じ福島県出身というだけで、会津に縁のない人間にもかかわらず気持ちが高ぶり、心の奥に蓄積したなにかがあふれ出た。山本さんは多くの史料を読んで、単なる感傷ではない彼女なりの新しい知見を得たのだろう。幕末、私の地元のいわきにも官軍はやってきて征圧されたことを最近知った。父の実家の近くにあった名刹はその戦争の際、焼き討ちに遭っている。戊辰戦争における会津は、日本の内戦史上最も苛酷で悲惨な運命を背負わされた。明治維新は無血革命などと言われることもあるが、実は会津で多くの血が流された。とはいえ私は、大昔に起きた戦争に関してそれほど強い思いはもっていない。いったいあの涙はなんだったのか。
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