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ゴッホの筆致と光 [美術]

 東京都美術館でゴッホ展「巡りゆく日本の夢」を見た。ゴッホが南仏のアルルに赴くと同時に、日本への傾倒を高めた1888年前後の作品を中心に展示し、ゴッホが影響を受けた浮世絵や本なども出品された。

 ゴッホの展覧会は国内でこれまでも度々開かれ、私も多くの作品を見てきた。また、新宿の損保ジャパン日本興亜美術館に行けば、「ひまわり」の大作を常設展示で見ることができる。いつも思うのは、この画家の作品には見るたびに新しい発見があるということだ。色彩の鮮やかさだったり、モチーフの新しさや構図の大胆さだったり。実物の油彩画を前にして、こり固まったイメージが崩れる。

 今回の展示では、ゴッホが想像以上に日本に傾倒していたことをあらためて知った。浮世絵の収集や作品への引用にとどまらず、日本の風景と日本の画家に大いなる理想を描いていた。その理想と南仏の風景を重ねながら精力的に制作しており、それは熱中と形容してもいいだろう。

 実を言うと私は以前、この画家の作品をあまりよく思っていなかった。精神を病んだ人間の描く絵、という目で見ていた。麦畑の暗い空を飛ぶカラスの群れの絵など、筆の運びがどこか異常で狂っているように思えるからだ。絵画は病的な心理を基にするのではなく、正常な意識で描かなければならないと考える。しかし正常と異常の切り分けは難しく、紙一重だ。ゴッホの絵において目覚ましい仕事は多いが、明らかにおかしい(病的である)と感じる晩年の作品に関しては、いまでも読み飛ばすようにしている。私の感覚では受容できない部分があるからだ。

 本展では浮世絵などの日本絵画の影響が大きい、あるいはそれに関連すると思われる40点ほどのゴッホ作品が展示された。ただし、具体的に浮世絵を模したのは「花魁」(1887)のみだ。有名な名所江戸百景「大はしあたけの夕立」の模写などは来ていない。そのため、ボリューム的には少々物足りなさもあった。

 私が特に注目したのは、「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」「雪景色」「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」「麦畑」「アルルの女(ジヌー夫人)」の5点(下図参照※ただし色味は実物と異なる)。「アゴスティーナ・セガトーリ」は女主人の造形もさることながら、青緑の色彩が漂う店内空間の表現に非凡さを感じる。右上に花魁の絵がわずかに描かれている。南仏に積もった雪を描いた「雪景色」は、ゴッホと雪という意外な結びつきによる作品。画家は雪景色を描くに当たり、日本の画家が描いた冬景色に言及していたという。白い絵具の塗りが無造作のようでいて的確だ。遠くに見える町並みがモダンに見え、前景にある板囲いと葦?の長いストロークがいい。遠景の淡いブルーグレーの配置が、冷たく澄んだ空気感を見事に表わす。ゴッホは19世紀を生きた人間の目と、現代のわれわれと同じ目の両方を持っている。

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「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」(1887)

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「雪景色」(1888)

 「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」から感じる明るさや透明感はどうしたものだろう。川面の手前には濃い青、そして奥に行くにつれ、空とともに淡い青になる。眼鏡橋の二つの空間が抜けるような空気感を生み出している(「アルルの跳ね橋」と同様の手法)。橋の上の赤い服の人物と洗濯女たちがいなければ、この絵は成り立たない。「麦畑」は「グレーズ橋」と同様に平坦な風景画だが、前景から中景に向かう斜めに進む藁の切れ端のような筆致の並びに目を奪われる。全体のトーンを見ると、濃い色は中景にわずかにある水平の帯のみ。非常に理性的だ。本作でも、遠景と空の淡い青が空気感を表すのに効果的に使われている。画面中央付近の筆致がいちばん盛り上がっていた。厚塗りのイエローオーカーを自分の目がつかんでいるのがわかる。単純な筆の運びの組み合わせだが構造にリズムがあり、ここにもまた非凡な資質を感じる。

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「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」(1888)

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「麦畑」(1888)

 「アルルの女(ジヌー夫人)」は背景をつくっている斜めの筆致が巧みだ。筆の上側にわずかに赤を入れ、規則的な斜線のようなピンク色の筆致を際立たせている。この背景と髪、顔、胸元の白い服における筆致との呼応がいい。それを机のエメラルドグリーンが受け止めていた。構図は浮世絵の役者絵などの影響を受けているのだろう。

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「アルルの女(ジヌー夫人)」(1890)

 ゴッホの絵をかたちづくる筆致はセザンヌのような厳密な置き方ではなく、素朴で荒く、単純なものだ。今回やってきた作品中の「男の肖像」のように、筆致が強調されていないものもあり、規則的な筆致の強調は意図的なものと言えるだろう。筆致はモチーフの本質を捕まえる仕事の成果だ。ゴッホの作品を前にすると、見るだけにとどまらず、目が触覚の役割も果たすようになる(絵画とは本来そういうものだが)。作品を写真で見ると、筆が少なく、とても淡白に見えてしまう。それだけ、絵具の盛りの効果は大きい。乾性油を多く含んだ絵具の場合、光沢が増し、物質感が高まる。'89-'90年ごろになると筆致がさらに強まり、ゆらめき、あるいは渦巻くようになっていく。

 画面の一筆一筆にはこの画家が絵画に込めたなにものかが宿っている。その何割かは画家が自然から受けた感動、そして芸術家としての強い意識だろう。では、残りはなにか? それを具体的な言葉で表すのは難しい。しいて言えば、キャンバスに塗り込められた色彩とはゴッホにとっての「光」だ。いわゆる光学的な光ではなく、画家が求めた夢や理想のようなものか。彼は色彩とともに光を求めて南仏にやって来た。唯一無二の筆致を見つめるとき、われわれはゴッホが創り出した理想世界に引き込まれているのだ。


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荒涼たる世界の様相 「ブレードランナー 2049」 [映画]

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 映画史には数々の作品が名作として刻まれている。監督、脚本、カメラ、美術、俳優、音楽、そして時代状況などが好条件としてそろったとき、優れた作品が生まれる。ただし内容がよくても、時代状況次第では、多くの作品の中に埋没してしまうこともある。1982年に公開された「ブレードランナー」は公開当初、SFファンや新しいものに敏感な一部の人の間でしか知られなかったが、その後徐々に評価が高まり、映画史の中で重要な位置を占めるに至った。その未来世界の描写は、SF映画に限らずその後のさまざまなジャンルの作品に影響を与えた。

 名作映画の続編というものは、たいてい第一作を超えることができない。なぜならば、前述したように名作にはいくつかの条件がそろう必要があり、偶然の要素が多いからだ。偶然は意図して作り出せるものではなく、特に映画内の時代背景といまの時代状況のリンクが重要になる。かたちだけ一作目を踏襲しても、中身がないという例が多い。「ブレードランナー」の続編となる「ブレードランナー 2049」を観た。はたして、この作品は前作に並ぶことができただろうか。

 冒頭に一人の農夫が登場する。男は食料となるワーム(虫)を農場で養殖し、野菜をつくっている。家の台所では、レンジに載った鍋がグツグツと音を立てる。全体をとおし無機的で終末感が漂う世界を映し出すこの作品において、唯一人間らしい営みが感じられるシーンだ。実は男はレプリカントなのだが、人工物である彼が人間的な生活の営みを望んでいる点が逆説的であり、ある面で、この冒頭シーンは本作が光を当てた根源的なテーマを集約しているようにも思える。

 「2049」が描く世界には、荒涼たる光景が続く。現在の人類の行ないが結実した世界、いわゆるディストピアであり、SFとは思えない既視感を感じる。都市やソーラーパネル、スクラップの山などが、いずれも広大なスケールで映し出されるがどれも寒々しい。天候は不順で、日中の晴れ間はない。前作の延長であるから、自然の動植物はとうに絶え果てている。海抜が数十メートルも上がり、巨大な堤防が都市を囲う。しかしながら、都市は発展し、究極的な威容を誇る。ここで人間は生きており、それを前作以上に具体的なかたちで表している。その世界を覆っているのが絶望なのか、希望があるのかは判断がつかない。あるいはそのような言葉はもはや存在しないように思える。この時代以前になにか大きな出来事があったことを予感させるだけだ。

 '82年に製作された前作のラストは、男と女が生き延びるために脱出を図る場面で終わる。そこには愛情があり、少なくとも暗くはない未来が待っているように思えた。一方「2049」は、その世界を見るにつれ、複雑な感情が湧き上がってくる。人間にとっての「自然」が消滅した地球環境が映像化され、'80年代にはまださほど萌芽がなかったロボット技術やAIなどが進化した末の人型ホームオートメーションシステムなどが登場する。都市を見渡すと、この世界(アメリカ)の「システム」は健在で、巨大な建造物や広大な都市を構築する「パワー」もあり、人間社会はそれなりに稼働している(ただし、「大きなシステム」が機能する世界は現在の視点からみてすでに虚構だ)。システムとパワーが本作の裏のテーマであるかのように思えるが、世界を包む空気は前作以上に深刻で、明るさはほとんどない。人が「こんなところでも生きている」というのが唯一の救いだろうか。

 それまで見たことのない世界観を映像化した点が前作の大きな特徴だが、物語としては、人間とレプリカントの関係が中心だった。生きたいと訴え、秩序を乱す存在としてのレプリカントと人間の闘い。ここで、生命とはなにか、という命題が昇華された。これに対し「2049」では、最新型のレプリカントが一人の人間を探し歩く。しかも、レプリカントと人間の間に生まれた子供という伏線が浮上してくる。私は少し違和感を感じた。人工物としての人造人間に生殖機能を持たせることは非常に複雑な問題をはらんでいるはずだが、本作ではそれは自然ななりゆきになってしまっている。タイレル社が力を入れたレプリカントの特徴の一つというだけの説明だ。しかし、本当ならばこの部分こそが続編としての核ではないのだろうか。生殖機能を備えた人造人間。それはもはや人間ではないのか。完全ではないにせよ、人間よりも能力が高い「人間」が出現する可能性を秘め、これを突き詰めると物語の道筋は大きく変容していくだろう。

 昔のアンドロイドもののSFでは、人工物に「心」が宿るのかがテーマになっていた。私はSF小説はあまり読まないので知らないのだが、現在この命題はどうなっているだろう。「ブレードランナー」シリーズでは、レプリカントが悲しみや怒り、喜びなどの感情を持ち、生きたいと願い、さらには人を愛する(あるいは殺す)。そのような感情と欲望を「心」と呼ぶかどうかの議論は飛ばされ、わずかな感情的瑕疵を除き、初めから人間となんら変わらない存在として描かれている。レプリカントは美を感じる心を持ち、生きたいと願った。人工物が「境界」を超えたことが本シリーズの生命線といえる。近年注目を集めている人工知能や遺伝子工学、細胞培養の延長線上に、人工物が美を感じ、仲間の死を悼み、長く生きたいと願うことがあり得るという設定だ。ネクサス6型の事件で封じ込めたはずの「感情」が、8型や9型でも消えていなかった。

 レプリカントが心と生殖機能を備えた。では、彼らと人間の違いは何か。蓄積された記憶だろうか。記憶についてリドリー・スコットは、前作の終盤で「思い出は雨の中の涙のように消える」とレプリカントのロイ・バティに言わせている。この言葉の後でバティは寿命が尽き、その手から命の象徴としての鳩が空へ飛び立った。記憶が消えた瞬間だ。しかしレプリカントはその記憶を、自分を殺そうとした人間に託した。記憶の継承は人間の存在理由と深い関係があるだろう。

 もはやレプリカントは人工物とはいえない。では、それは人間なのか。人間たりえるとはどういうことか? 自らの生存に必要な自然環境を徹底的に破壊し、他の種族を絶滅させた「矛盾した存在」だろうか。すべてを壊してしまった中で孤立して生きる者こそが人間なのだろうか。すでにこの世界には「心」は存在しないように思える。そこにいるのは自らが作り出したシステムによってのみ生きている、人間の形をしたなにかだ。生きることそのものが目的であるレプリカントと、生きる目的を見失った人間。前者は人間になろうとし、後者は人間を捨てた、とも言える。

 35年ぶりに登場したデッカードの姿が表しているように、彼こそが最後に残った「人間」だった。そしてその後に続く者は、デッカードの子供ではなく、Kなのではないのだろうか。「2049」のテーマは、「人間」ではなくなった人間たちと、「人間」を受け継いだレプリカントが存在する逆転した世界だ。矛盾した存在、自らを引き裂いた存在が人間だとすれば、Kもまた矛盾の萌芽を抱えている。実は自分は人間ではないのか、という希望を持ちながら。

 さて、はたして「2049」は前作に並んだか。美術を含めビジュアル的には勝っている部分もあったが、総じて世界を広げすぎたように思う。前作をリスペクトしつつ、それを中途半端に取り込み、物語の骨子にズレを生じさせている。人間とレプリカントとの間の子供という設定に未消化さを感じ、レイチェルとデッカードを会わせるシーンはあまりに陳腐で、なにも生み出していない。また、終盤で登場するレプリカントのレジスタンスのようなグループ。あの部分を広げれば、本作は大失敗に終わっただろう。人間対レプリカントの闘いの構図は陳腐なハリウッド映画の常套手段に陥る。よもや続編でそれをやろうとしているとは思いたくないが。デッカードは動きの鈍い脇役にすぎず、老いが目立った。終盤の海中のシーンに至っては、なにもさせていないがために役が止まっている。そしてラストシーンの父と子の再会はどうにも情緒的で、親子関係という従来からあるヒューマニズムに帰着している。

 監督は、スケールを狭めること(描かないこと)によって、世界を広げるような映画的手法を持っていない。拡大するだけの大作主義だ。物量は物量でしかなく、映画とは本来関係がない。時間も2時間ほどに縮めたほうがいい。「ブレードランナー」は、観客の想像に委ねる部分が多かった。世界観にしても、人間とレプリカントの存在にしても、そして二人の未来についても。それが支持された大きな理由ではないかと思う。観る人それぞれが感じる解釈の入る余地があったということだ。いうなれば、描かない部分こそがSFの間口の広さでもある。一方の「2049」は、世界観をシビアに描きすぎた。つくりこみの完成度が高く、想像できないこともないが、解釈の余地があまりに少ない。スクリーンに映し出されるのは、絶望の度合いが増し、ユーモアや夢がなく、寒々とした荒涼たるディストピアの様相だ。

 とはいえ、ほかの映画に比べ、美術を含めて目を見張る場面は多かった。そして、一人の男の孤独と変化、苦悩をライアン・ゴズリングが好演している。それだけでも映画館に足を運ぶ価値はある。前作を無理に踏襲せず、いったん区切って別の新しい物語としてつくるべきだったのではないだろうか。本作で私が最も気持ちを動かされたのは、ジョイ(築き上げた記憶)が消えるシーンだ。Kの心にだけ残るジョイの記憶。そこには前述した「人間」に関する命題が含まれている。

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名作「レッドタートル ある島の物語」ーー人と自然と [映画]

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 昨年の9月になるが、「レッドタートル ある島の物語」というアニメーション映画を観た。そのときは、のちに大ヒット作となった「君の名は」もほぼ同時に公開になり、私は前者を選んだ。

 「レッドタートル」は嵐で遭難し、無人島に流れ着いた一人の男の物語だ。カンヌ映画祭の「ある視点」部門で特別賞を受賞している。監督は「岸辺のふたり」などの短編でいい作品を残してきたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。スタジオジブリのプロデューサーらが関与し、制作は主にフランスで行われた。統一された色調とシンプルな線画が特徴の、きわめて美しいアニメーションに仕上がっている。

 舞台となる島にはなにもない。文明のかけらも、時間も、言葉(登場人物の台詞)も。今がいつなのか、ここがどこなのかもわからない。男は、島からの脱出をたびたび試みるが、なにか見えない力が働いて、ことごとく島に引き戻されてしまう。その男の前に、ある日、赤い海亀が現れる。その後、どこからか女がやってきた。男は女と共に生きるようになり、子供が生れ、ときに自然の脅威にさらされながら、日々の生活を続ける。子供は成長し、ある日外の世界へ旅立つ。本作は一人の男の一生を描いて終わる。

 無人島で生き抜いた人間や人間たちをテーマにした話ならば、よくあるだろう。文明と拒絶された異界で、なんとか人智を発揮して困難を乗り越えて生き延び、最終的に文明の世界に戻る。この映画が、それらと異なるのは、得体のしれない、自然の意思ともいうべき存在が男を受け入れ、それによって、男の人生の歩みがあらたにはじまるところにある。その存在は最後までわからない。その存在はなぜ男を島にとどめおいたのか、やってきた女はだれなのか。言葉はないままに、美しい島の日々は過ぎていく。

 本作を観終わって、わたしの目には涙があふれた。胸が息苦しくなるほどだった。男は年老い、この島で死んでいく。それを見送る女。時間も何もない島には、日々の生活があり、家族と喜びがあり、出会いと別れがあった。女は静かに海に帰っていく。あとにはなにも残らない。それは、見渡す限りの海に囲まれた美しい自然のなかでの出来事だった。

 われわれにとって自然とはなんだろう。多様な生物を育む奇跡的な環境。それだけだろうか。本作は、自然を大切にしようとか、自然があるから人間は生きていける、といった啓蒙的な呼びかけはしない。自然賛美や文明の否定・批判もない。私が涙した理由は、説明がつかない。そこには、なにかを成し遂げた達成感や、波乱万丈に満ちた物語、あるいは希望があったわけではないからだ。男は一人の人間として自然の中で生き、自然は厳しい試練を与えながらも男を受け入れた。この満ちたりた感覚、ただそれだけだ。あるいは、老いて死にゆく男を見届け、海に帰っていった女の姿、すなわち母性的な存在に心を打たれたのだろうか。あえて言葉で語る必要はない。なにものとも分からぬ存在を私は心で理解した。観て、海の底のように深く感じる映画だ。
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イーヴォ・ポゴレリッチの「ラ・ヴァルス」 [音楽]

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 サントリーホールにてイーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いた。ポゴレリッチの演奏会に足を運んだのは今回で3度目。初めに断っておくと、私はクラシック音楽については素人だ。演奏技術や様式、音楽史についての知識はあまりない。そのため、以下に書くことは印象に基づいており、かなり主観的だ。言葉の不足は、私が携わっている絵画を例にしながら補ってみたい。

 ピアノ音楽の歴史の厚みを受け継ぎつつ「壊すことの中から新しい音楽を創り出す」。ポゴレリッチが目指すのはそういうことではないのか、と私には思える。彼はロシアやヨーロッパに流れるピアノ音楽の後継者としての修練を重ねたうえで、なにかを壊し、そこからより確かなもの、より堅牢なものを創り出そうとしているように感じられるのだ。この場合の壊すというのは、表面的な解釈にとどまらず、常にいまよりも深く楽曲を掘り下げ、演奏することを指す。

 美しさと品格。どれほど秀でた演奏であろうが、曲の斬新な解釈であろうが、憧憬と呼べるほどの美しさがなければ音楽とはいえない。そして、演奏者としての品格。品格という言葉が適切かはわからないが、ここには演奏家の孤高なる精神や厳しさが含まれる。私がポゴレリッチの演奏に惹かれたのは、なによりもまずこの二つが際立っているからだ。それを支えているもの、会場で起きていることを、彼が放つ圧倒的な音楽を聴きながら理解したい気持ちが湧き上がる。もっとも、彼の演奏に拒絶反応を示す人もいるだろう。従来のピアノ音楽からすれば、彼の音楽は特異な次元にあることは確かだ。

 音楽を評価する際に「音の粒立ち」という表現がときおり使われるが、ポゴレリッチの場合、厳密にいうと「粒」ではない。その演奏を聴くと、一つひとつの音がなにか、立体的なブロックのようなかたちに見えてくる。絵画においては、セザンヌやゴッホなどのポスト印象派に見られる「筆触」「タッチ」「色斑」というものに相当するだろうか。それは、彼の演奏の一音一音が非常に明確であるがゆえなのかもしれない。ホールに弾き放たれる大小の立方体は、それぞれが代替え不可能で確信的な真実、本物だ。それらが暗闇のなかから明瞭に耳に届き、心の中に音楽を創りあげる。彼の音楽は「現象」としてその場に立ち現れるかのようだ。聴衆はその現象の場に立ち会う。現代アートのインスタレーションのように、「目撃する」といったほうがふさわしい気がする。

 私はたくさんのピアノ演奏を聴いてきたわけではないが、ポゴレリッチほど一音一音を大切にしているピアニストはいないのではないかと思う。それでなければ、あれほど明確な音を紡ぐことは不可能だ。すべては曲の解釈と指のコントロールにかかっている。そのコントロールは才能はもちろんだが、特別なメソッドと相当な練習量がなければ実現しないだろう。頭脳と身体の両方で出来る限り譜面を吸収し、演奏しているように見える。

 一音を大切にすることは、音楽のテンポと密接に関係しているように思う。彼は無意味な「速弾き」はしない。遅いテンポは時代に逆行しているようだが、実際には音楽をゆっくり奏でることは相当難しいだろう。素人目には「間が持たない」。ゆっくりとしたテンポで演奏できるということは、それだけ楽譜に刻まれた音を把握しているからではないか。絵画も同様に、画面を筆致で埋め尽くすことは容易だが一筆一筆に緊張感をもたせた場合、描かない部分が非常に重要になる。つまり絵画は「塗り絵」ではないといいことだ。

 画家はモチーフを見て、それをいったん頭の中(感覚)に通し、変換したうえでキャンバスに対象を実現する。同じことをポゴレリッチも行っているのではないか。110年前の絵画の巨匠が語ったように、自然において「水平」は広がりを、「垂直」は深さを示す。自然の追究では、特に深さが重要になる。ポゴレリッチの音楽はこの深さを追究しているように思える。もちろん、そのような意識をもった演奏家はほかにいるはずだ。ポゴレリッチがそれらと異なるのは、時間と深さをコントロールすること、つまり自律性がきわめて高い点にある。自律性は、時間と深さの表現に大きく影響する。たぶん、彼の演奏において私が強弱や重さ、軽さとして捉えていた音は、実は深さでコントロールされたものなのだろう。その深さ(垂直)は彼が独自に到達した自然とさえ呼べるものだ。

 さらに、曲の解釈について触れたい。静物画や風景画でも、あるいは肖像画でも同じだが、モチーフというのは光線の具合はもちろん、見る時間や位置によって、都度変化する。現象として、同じことは二度と起きない。そのような中において重要なのは、表層の変化に惑わされず、モチーフをいかに見る(読み込む)かだ。普遍性の追究。これはたぶん、音楽の解釈にもいえることではないだろうか。楽譜に記録された記号と空白の組み合わせの間には、時間的かつ空間的なさまざまな可能性やEmotion、霊感が無数に張り巡らされ、幾通りもの解釈が存在するのかもしれない。しかし十分な思考アプローチを行ない続ければ、作曲者の意図に限りなく近づくことは可能だろう。

 解釈は無限にある。ただし、人間は既存の価値観や様式、印象に染まりやすい。そして多くの場合、染まっていることに気がつかない。この罠にはまらないようにするにはいくつかの方法がある。そのひとつが、すでに出来上がった表現様式や印象を、自らのメソッドあるいは身体性で壊すことだ。楽譜をピアノの下にバサッと無造作に置くポゴレリッチだが、楽譜の追究には相当注力しているのではないだろうか。そして常に更新(壊すこと)を続けている。体験的にいえば、いちど出来上がったものを壊し続け、さらに掘り進むことは容易なことではない。ポゴレリッチはそれに耐えうるだけの強い頭脳と身体性をもった演奏家だと思う。実際に身体は大きい。

 常に大きな進化を続けるとすれば、とどまることはありえず、ある地点の成果をCDというかたちにすることを拒絶するだろう。そしてその進化には相当な時間を要する。自他に限らず、すでに出来上がった表現を壊したところから新しいなにかが生まれる。ポゴレリッチはその仕事を実直かつ確信的に行なっている演奏家の一人だ。ピアノ音楽の文脈をたどるような今夜の曲目と、圧巻の「超絶技巧練習曲」、換骨奪胎し霊感に満ち、あるいは静かなる狂気にさえ触れた「ラ・ヴァルス」[*]を聴き、その感を強くした。特に「ラ・ヴァルス」は、作曲者が目指していたものにかなり肉薄していたように感じる。混沌とした低音の中から沸き起こる大輪の花のような舞踊の世界はラヴェルのいう悪魔を超えた次元へと達し、悦楽的であるとともに、この演奏が永遠に続くのではないかという恐ろしささえ覚えた。低域から高域、強音から弱音まで、すべての音がにごらず明確に響き、調和していた。演奏者にとってはまだ過程だろうが、私は今夜の演奏には、すべての曲において、現時点での完璧に近い高みに達した解釈と表現があったと思う。

イーヴォ・ポゴレリッチピアノ・リサイタル
場所:サントリーホール
日時:2017年10月20日(金) 19:00 開演

[曲目]
  クレメンティ:ソナチネヘ長調op.36-4
  ハイドン:ピアノ・ソナタニ長調Hob.XVI:37
  ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57「熱情」
  ショパン:バラード第3番変イ長調op.47
  リスト:『超絶技巧練習曲集』から第10番ヘ短調、第8番ハ短調「狩り」、
       第5番変ロ長調「鬼火」
  ラヴェル:ラ・ヴァルス
  アンコール ラフマニノフ:「楽興の時」より 第5番
        ショパン:ノクターン ホ長調op.62-2

[*]ラ・ヴァルス――自作曲の中でラヴェルが最も気に入っていたという。彼によれば、ワルツのリズムこそ人間性と密接にかかわるものだという。「なぜなら、これは悪魔のダンスだからだ。とくに悪魔は、創造者の潜在意識につきまとう。創造者は、否定の精神とは対極の存在だからね。創造者の中でも音楽家の位置が一番高いのは、ダンスの音楽を作曲できるからだ。悪魔の役割とはわれわれに芸当をさせる、つまり人間的なダンスをさせることなのだが、人間のほうも悪魔にお返しをしなくてはならない。悪魔とともにできる最高の芸当は、悪魔が抵抗できないようなダンスを踊ることだよ」(春秋社刊「ラヴェル…その素顔と音楽論」より)

{2017.11.26 改訂}
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イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016 [音楽]

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 イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを水戸芸術館にて聴く。彼の演奏会に足を運んだのは三鷹の芸術文化センター以来21年ぶりになる。三鷹では、体調不良のせいもあって曲目が変更になった。独特の力強さはあったものの、薄暗い舞台上での揺らめくような姿を記憶している。その人はいま、まったく別のピアニストに進化していた。ピアノのポテンシャルを最大限に引き出すような演奏だった。低域の強さと重さ、深さと高み、奥行きと広さ、独自の解釈による楽曲の再構築と時間感覚(テンポ)、意外性のある間、いずれも特別なものだ。

 開場してホールに入ると、ステージ上にはすでにポゴレリッチその人がいた。フリースのようなゆるい服とシャツを重ね着してニットキャップをかぶり、なにかのフレーズを確かめるようにゆっくりとピアノを弾いている。足元には紙コップ。ときどき、客席に目をやる。来場者にはそれがポゴレリッチ本人であることに気付かない人が少なからずいた。開演15分前くらいになっておもむろに立ち上がり、袖に下がった。

 開演は4時。水戸芸術館は収容数680人ほどの中規模のホールだ。客席は三方に分かれ、ステージ奥の上方にも座席がある。木の温かみを生かした設計は演奏者との距離が比較的近く、親近感がもてる。通常のホールにくらべて天井が低い。満席の会場にピアニストは燕尾服でゆっくりと現れた。前半はショパン「バラード第2番ヘ長調」と「スケルツォ第3番嬰ハ短調」、シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」。後半はモーツアルト「幻想曲ハ短調」、ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番変ロ長調」。

 驚くべき低域だ。倍音が多重に放たれ、デチューンしているようにさえ聴こえる。それでいて濁りがない。尋常ならざるフォルテッシモからピアニッシモまでが実に明瞭に聴こえる。低域の重みと厚み、これと中高域の輝くような美しい響きが両立する稀有な演奏。「バラード第2番」では、ゆったりと穏やかな第一主題と厳しく激しい第二主題の対比に惹き込まれる。「スケルツォ第3番嬰ハ短調」は強さと大きさ、「幻想曲ハ短調」では息を呑むような一音があった。続く「ピアノ・ソナタ第2番」からは大きな波のような情感を感じた。

 2005年以降の来日時、ポゴレリッチを聴く機会は何度かあったが、私は足を運ばなかった。10分の曲を30分かけて弾く「ポゴレリッチ時間」、原曲をとどめない解釈、緊張を強いられる演奏空間。それを知って怖気づいた。だが、彼のファンは辛抱強くその時期の演奏を聴き続けた。そして現在「ポゴレリッチ時間」と独自の解釈、奏法は一つの結実に至っている。いくつかの不運に遭いながら、10年以上に及ぶ特異な試行を重ねてきた彼の精神力、持続力はどこから来るのか。その巨大なポテンシャルの萌芽に気づいたからこそ、アルゲリッチは彼を支持したのだろう。「解釈」については、ピアノ曲の要素を徹底的に分解し、彼の感覚を基に変換、再構築した仕事だと私は考える。楽譜があっても音楽は写実ではない。いわば抽象表現だ。ピアニストの領分。

 本公演の一週間前に開かれたサントリーホールでの演奏時間は前後半とも50分ほどだったと聞いていたが、水戸ではそれよりもじゃっかん短かったのではないだろうか。私の記憶では前半で45分、後半で48分ほどだ。それは、ホールの響きと関係があるのかもしれない。水戸は天井に円形のパネルが付けられ、3本の大きな柱のほか、後席側の壁は大きく2カ所張り出している。残響時間はサントリーホールよりも短い1.6秒(満席時)。私が聴いたかぎりでは、音の濁りや滞留はなかった。プロの演奏家であれば、ホールの響きに合わせてプレイは精密に変化する。もっとも、数年前に比べ、標準的な演奏時間に近づく傾向にあるらしい。

 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。聴衆はそれぞれ、胸に感じるところがあっただろう。ゆっくりと静かに始まるこの曲は、激しい感情の高潮を迎え、消えいるように終わる。私はそこに夢や情景、去来する過去の記憶を見た。深い悲しみの中に光る高みを表した演奏だった。ピアニストが足で椅子をピアノの下に押しやって演奏会は幕を閉じた。

 申し分ないテクニックと精神性。このピアニストが持つ資質が、前述した大きく力強い響きと美しく明瞭な旋律に支えられ、高みに達した。私は、独自の解釈によって構築したモーツァルト「幻想曲ハ短調」とそれに続く「ピアノソナタ第二番」に強く感情を動かされた。あの演奏空間に立ち現れたもの。それこそが彼の音楽のすべてだ。ポゴレリッチは音楽のとらえ方を変える力を持つ。ピアノ演奏あるいはクラシック音楽に対する私の認識は変化した。
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上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト「SPARK」 [音楽]

 東京国際フォーラムのホールAにて上原ひろみザ・トリオ・プロジェクトのライブ「SPARK」を聴く。この公演は五大陸にわたる世界ツアーの一環であり、日本国内では各地で計23回行なわれる。そのうち、東京国際フォーラムは3日間。私が行った日は満席だった。三十代くらいの客が多かった気がする。

 上原ひろみの演奏はこれまで、テレビやラジオでときどき聴いており、そのアグレッシブで超絶技巧的なプレイは実を言うとあまり好みではなかった。そのため、「速弾き技巧派」「ラテン系?」「チック・コリアや矢野顕子と共演」程度の認識だった。私はジャズという音楽においては、響き重視で間のある演奏のほうが好きなのだ。

 いちどは聴いておこう、どうせならアンソニー・ジャクソン(Bass)とサイモン・フィリップス(Drums)でのトリオがいいーー。そのくらいの気持ちでチケットを購入して会場に足を運んだ(ただしアンソニー・ジャクソンは健康上の都合で今回は不参加。代役はアドリアン・フェロー)。

 公演は新譜のタイトルであり、本ツアーのテーマ曲ともいえる「SPARK」で始まる。予想どおり、いきなり飛ばす。非常に速いテンポとフレーズ、ダイナミックな展開。それは、たしかにホールAを満席にするのが頷ける演奏だった。曲目が進むにつれ、その感は強くなる。まず、ピアノの音とフレーズが立っている。テクニックは申し分ない。短いフレーズのシーケンスやトレモロが聴衆の意識をぐいぐいと引っ張るのが分かる(上原ひろみの音楽において、繰り返しは非常に重要)。サウンドは明快で、驚きや発見で世界を切り開いていくような高揚感があり、ときに、ジャズというジャンルの存在を忘れさせた。これまで抱いていたイメージとは異なり、高域を弾き鳴らさず、抑制された重心がある。曲の構成や構造自体はフュージョンに近い気もするが、要するに表現として分かりやすい。相当高度なことをしているにもかかわらず、分かりやすく聴こえるのは大切なことだ。そして、3人のインタープレイは新しいひらめきに満ちていた。

 聴衆の感情に変化を与えることができる稀有なジャズミュージシャンの一人だ。現在の多くのジャズミュージシャンやバンドは既成のパターンを並べてジャズ的な演奏してみせるが、多くの聴衆の感情に変化を起こすまでに至らない。5000人の来場者の感情を動かすトリオ演奏というのはそうそうできるものではない。一方で、ジャズの「方言」はあまり含んでいない。それが新しさを感じるともいえるが、この点は好みが分かれるところだろう。

 左右に設置されたスクリーンにアップで映し出される上原ひろみの顔は喜びに満ちていた。彼女の輝く目や表情が、驚きや発見を生み出す演奏を成し遂げていることを物語る。「弾くのが楽しくて仕方ない」という姿勢は以前と変わらず、さらに、聴く人を引き込む力が備わったように思う。それは「Wake Up And Dream」のような静かなソロピアノ曲にも現れている。聴衆は感情の変化を求めて会場を訪れ、上原ひろみのパフォーマンスは終始それに応えた。加えて、サイモン・フィリップスとアドリアン・フェローによる連係は非常に完成度が高く、インタープレイの次元を高く押し上げている。

 幅広い表現力と大きなスケール、パワーを持ったジャズピアニストだ。速弾きラテン系どころではなかった。これは彼女の強靭な腕力と身体性によるところが大きい。なによりも強いのは、彼女はピアノを弾くのがとにかく好きであるということ。それが全身に、演奏に現れている。これほどの身体性をともなったジャズピアニストは私の知るかぎりミシェル・ペトルチアーニ以来ではないだろうか。五大陸ツアーが組まれる事実がそれを証明する。圧倒的な体験だった。

 このライブを見た後、CD「SPARK」を買ってあらためて近作を聴いた。残念ながらCDには、会場で感じた、世界を切り開くような高揚感はあまり含まれていない。感情の変化という体験は同じ場所、同じ空間を共有することで生じるらしい。いま、音楽界においてライブに人気があるのはそれが理由だろう。上原ひろみが目の前でプレイすること。彼女が彼女の身体性を駆使して生み出す偶発性は記録媒体に収めることはできない。ステージでしか生まれないなにかがある。未知の音楽はたしかにそこに存在していた。

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故入野義朗 生誕95周年記念コンサート [音楽]

入野義朗.png
入野義朗

 東京オペラシティリサイタルホールで「故入野義朗 生誕95周年記念コンサート」を聴く。入野義朗(いりのよしろう・1921-1980)は日本における十二音技法の第一人者。日本で最初の十二音技法による作品「七つの楽器のための室内協奏曲」を1951年に発表している。また、桐朋学園音楽科の設立に参加したメンバーの一人であり、その運営と教育に当たったという。

 本公演はすべての曲(下記の演目)、演奏ともクオリティが高かった。実行委員による選曲と人選がよかったのだと思う。実行委員には入野禮子夫人も参画している。楽曲は現代音楽特有の無調性や不協和音、難解さが前面に出てこず、いままで私が持っていた十二音技法音楽の印象を変える内容だった。

 全体的に若手の演奏者が多かった。それゆえ、演奏に新鮮さがあり、「ピアノのための変奏曲」などの戦前に書かれた曲であっても、瑞々しい感覚と解釈、今のテクニックで現代に蘇らせていた。

 ピアノ独奏、管弦五重奏、ヴァイオリンとピアノ、合唱、フルート独奏、そして最後の伝統楽器による「四大(しだい)」、いずれも聴き応えがあり、また近年の現代音楽にはない温かみを感じた。「管楽五重奏のためのパルティータ」は、異なる性格を持つ5つの楽器でバランスよく構成し、上質な合奏曲に仕上がっていた。各楽章の終わりの余韻が美しい。「ヴァイオリンとピアノのための音楽」は第2楽章の「枯れた」趣きが印象深い。「独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション」は、天と地をつなぐようにフルートを鳴らす。それはさながら尺八のようだった。「四大」は二十絃箏、十七弦箏、尺八、三絃の4つの伝統楽器による晩年の曲。尺八という楽器の音は縦の役割を果たし、これに対して箏のシーケンスは横、三線はそれらをつなぐ斜めの役を果たしていたように感じた。ときに尺八奏者が拍子木を響かせ、要所を引き締める。無調による緊張感のある音楽は音の濁りがない。4人のアンサンブルが絶妙だった。

 十二音技法をベースに置きながら、そのうえに静謐な独自の音楽世界を構成し表現している。厳しさと戦後の時代的安定性(多様性を取り戻す力)が共存する構造は味わいがあり、もういちど聴いてみたいと思わせた。

 記念コンサートだが、司会などの挨拶、MCはいっさいなく、終始演奏に徹していた点は潔い。平日に開かれた現代音楽のコンサートにもかかわらずほぼ満席。来場者層はさまざまな世代に渡っていた。今後、入野義朗氏再評価の機運がさらに高まることを祈る。

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日時:2016年11月14日
会場:東京オペラシティリサイタルホール

プログラム:すべて入野義朗作品

■ピアノのための変奏曲 (1943)
Variations for piano solo
田中一結(pf)

■管楽五重奏のためのパルティータ (1962)
Partita for wind quintet
鷹羽弘晃 指揮、下村祐輔(fl)、鈴木かなで(ob)、前山佑太(cl)、河野陽子(hn)、木村卓巳(bn)

■ヴァイオリンとピアノのための音楽 (1957)
Music for violin and piano
中澤沙央里(vn)、佐々木絵理(pf)

■凍る庭 (1961)
Frozen Garden for mixed chorus and piano
西川竜太 指揮、ヴォクスマーナ、篠田昌伸(pf)

■独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション (1972)
Three Improvisations for flute solo
多久潤一朗(fl)

■四大 (1979)
SHI-DAI (The four elements: earth, water, fire and wind) for shakuhachi/shinobue, 20-stringed koto, 17-stringed koto and san-gen
藤原道山(尺八)、黒澤有美(二十絃箏)、本條秀慈郎(三絃)、平田紀子(十七絃箏)

*本公演の録音を収録したCDが後日発売される予定

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高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~ [音楽]

 高橋悠治のピアノコンサート「高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~」を聴く。ゲストはギタリストの笹久保伸。会場は三軒茶屋のサロン・テッセラ。<2016年11月6日>

 今回はピアニストに近い席で聴いた。間近で聴くピアノは、音の拡散や指向性が、低音や高音、弾き方などによってさまざまだ。いうなれば散漫で不定形。耳は意識に応じてそれらの音を捕まえ、脳に届ける。リアルタイムでマルチ。その点でCDの音楽というのは、ならして整理・統合されている。スピーカーから出る音はリニアだ。

 レオ・ブローウェルの「10のスケッチ ピアノ曲」は聴きどころの多い、いうなれば多彩な面を持った曲集だった。調性のあるところないところ、情緒的なフレーズ、即興部など、いろいろ興味深い内容。もういちど聴いてみたいが、CDなどは発売されていないもよう。

 高橋悠治の音は、たんたんとした演奏ながらも純度が高い。音楽の核のようなものを的確にとらえている。この人はたぶん若い頃からこのような音を響かせていのではないかと思える。これは音楽に対する姿勢、あるいはそれ以外の思想などから来ている。その姿勢が老練になり、さらに音楽の存在を高めている。

 ギターの笹久保伸は適度な密度をもった演奏を披露した。うち3曲ではギターを弾きながら詩や俳句を読んだ。現代音楽とアンデス音楽を演奏するギタリストとのこと。世界各地の空気を吸収したような響きがあった。ある種の音楽家特有の器用さを備えた人だ。

 高橋悠治は最後に武満徹作曲の「ピアノ・ディスタンス」を弾いた。今年は没後20年。曲目リストには記載されていなかったので、アンコール曲になるだろうか。短い曲だが、高橋悠治が武満音楽をどう解釈したかがわかった気がした。武満徹が江ノ電車内で学生の高橋悠治を見かけたときのエピソードを思い出した。

 小規模なホールは落ち着いた雰囲気でくつろげる。休憩時間に別室でお茶がふるまわれた。いいコンサートだった。

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曲目は以下のとおり。

1. Leo Brouwer「Diez Bocetos」(1961-2007)
レオ・ブローウェル「10のスケッチ ピアノ曲」(キューバの画家10人の肖像)

2. Leo Brouwer「HIKA in memoriam Toru Takemitsu」(1996)

 ピアノ:高橋悠治

3. 高橋悠治「Guitarra」 ギター(詩:セサル・バジェホ)(2013)
4. 高橋悠治「Trans Puerta」 (詩:笹久保伸)(2016)
5. 高橋悠治「柳蛙五句(りゅうあごく)」(俳句:井上伝蔵)(2014)
6. 高橋悠治「653 en cursiva」(向山一崩し書き)(gtr.pno.)(初演)

7. 武満徹「ピアノ・ディスタンス」

 3, 4, 5 ギター弾き語り:笹久保伸
 6 ピアノ:高橋悠治、ギター:笹久保伸
 7 ピアノ:高橋悠治

高橋悠治_サロンテッセラ1.jpg

没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート [音楽]

 武満徹が亡くなって20年が過ぎた。今年は各所で節目のコンサートがいくつか企画された。東京オペラシティコンサートホールでの「没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート」はその一つ。同ホールの名称は「東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル」。追悼公演の企画としては大きなものといっていいだろう。公演日は10月13日。

 私は以前に、三鷹市芸術文化センターにて沼尻竜典指揮東京モーツァルトプレイヤーズによる武満作品演奏会(『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く)に足を運んだ。いつものごとくそのときの音の記憶はすでに残っていないが、今回はホールとオーケストラが違うせいか、あらたな体験をした心持ちだった。

 指揮は武満作品を多く手がけ、友人でもあったというオリヴァー・ナッセン。曲目は以下のとおり(演奏順)。

地平線のドーリア(1966・約11分)
環礁ーーソプラノとオーケストラのための(1962・約17分)
テクスチュアズーーピアノとオーケストラのための(1964・約8分)
グリーン(1967・約6分)
夢の引用ーSay sea, take me!ー ーー2台のピアノとオーケストラのための(1991・約17分)

 本公演を聴いてまずはじめに感じたのは、武満徹が作曲したオーケストラ音楽の繊細さだ。単に音量の小ささや音の弱さではなく、楽器の鳴らし方自体が特別であり、音楽の成り立ちがほかの作曲家と異なる。「強さ」やボリュームを目指すのではなく、草木や土、風、空などのうつろう自然現象による不確定さと厳しさ、鋭さを備えた音楽とでもいえばいいだろうか。それから、この繊細さを包み込む静寂、静謐なる空間(間)の存在を強く感じさせる。特にその傾向が強かったのは「地平線のドーリア」だ。プレイヤーが発した音が「演奏」としてやってくるのではなく、こちらからその「場」へと向かう必要がある。そして、ここはいったいどこなのか、なにが起きているのか。ほの暗い林の中でつむがれた音を追う。ひとつだけ言えるのは、自分がいるのは日本のような場所だということ。それが過去か未来はわからない。

 「環礁」で女性歌手が歌いだす。最初は気づかなかったが、よく聴くと日本語だった。大岡 信の詩。ソプラノはクレア・ブース。神話的な静寂の場に立ち現れるものはなにか。「テクスチュアズ」は張りつめた緊張感をダイナミックに構成した秀作。ピアノは高橋悠治(ピーター・ゼルキン体調不良のため変更)。「グリーン」は比較的調性感があった。青空と雲のある風景を想起させるような美しさがときおりやってくる。さまざまな映像を想起させ、その連鎖は聴くものをどこへ導くのか。「夢の引用」のピアノは高橋悠治とジュリア・スー。ここではピアノの響きが美しい。ときに、ドビュッシーの「海」や武満自身の作品が引用として現れる。武満徹という作曲家のスケールの大きさを感じる一曲。

 2階の側面の座席から俯瞰で聴いたせいか、音がまとまって聴こえるのではなく、各パートが個別に耳に届いた。これは演奏者がよく見えたせいなのか、武満作品がもともとそういう構造なのかはわからない。そのため、全体の流れよりも、一つひとつの音をつかまえることが容易だった。以前三鷹で聴いた「弦楽のためのレクイエム」とは異なる印象を受けた。とはいえ、曲中の大きな盛り上がりに向かうエネルギーの集中は恐るべきものがあった。ストラヴィンスキーが「厳しい音楽」と評した武満の音楽にある機微を的確にとらえた演奏だったと思う。

 私の知る限り、今年開かれる武満徹コンサートで見逃せないのは、本公演と世田谷美術館講堂での高橋アキ「武満徹 ピアノ独奏曲演奏会」だろう。残念ながら後者を知ったときにはチケットはすでに完売だった。高橋アキが弾く武満作品の確かさはCD「高橋アキ plays 武満」を聴けばわかる。できれば20年といわず、ときどき演奏してほしい。

武満徹プレート.jpg
東京オペラシティコンサートホールに掲示された宇佐美圭司作の武満徹肖像画レリーフ
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デジタルリマスター版「男と女」 [映画]

 デジタルリマスター版の「男と女」を立川シネマシティで観た。
クロード・ルルーシュ監督の名作。同監督が撮った短編「ランデヴー」との二本立て。

 最初に上映されたのは「ランデヴー」。全編フェラーリのエンジン音、駆動系の軋む音が耳を直撃する過激な映画だった。シネマシティお得意の爆音上映。ただし、少し手加減しているらしい。早朝のパリをたぶん100kmは出ているであろう速度で疾走するクルマのノーズに取り付けられたカメラによる映像。なぜ走るのか、説明はいっさいない。ただひたすら街を走る。信号はすべて無視。ほかのクルマをプロレーサー並みのテクニックでよけ、鳩を蹴散らし、道行く人とぎりぎりすれ違う。本作はその危険な内容ゆえ上映禁止になったという。見ているうちに頭がフラフラしてきた。街の高台に到着し、おもむろにクルマは止まりドアが開く。出てきたのは一人の男。意外なラストシーン。驚愕の8分間。

 いまさら「男と女」についての評価を語るのは野暮だろう。1966年当時の恋愛映画のスタンダード。フランス映画独特の空気感、ストーリー展開はいま見ても新鮮だ。リマスター版は、色彩と鮮明さ、音質の点で現在の映画スクリーンでの上映に耐えうるクオリティを備えている。特に、浜辺沿いのデッキをカメラが進み、テーマ曲が流れる冒頭のシーンは、わずかに褪せた色調に情緒があり、魅力的だ。風景を包む、なんともいえない微妙な夕暮れの色合いが美しい。夕暮れシーンはほかにもいくつか撮られ、それがこの映画特有の甘い雰囲気を醸し出している。

 本作は、場面によってモノクロとカラーを使い分けているが、じゃっかん青みがかったり、赤っぽかったり、ニュートラルだったりするモノクロシーンの色味もそれぞれいい演出だった。この映画のヤマ場である終盤のベッドシーンは適度な粒状感があり、光の回り方が柔らかい。これはフィルムだからこそ撮れたものだろう。女優の表情をとらえるフレームが秀逸。また音声も明瞭で、映画全体の輪郭を際立たせる効果がある。クルマの使い方に時代を感じた。フランス車ではなく、ムスタングという選択がうまい。

 男がすでに死んでいても、基本的には三角関係を描いた作品だ。クロード・ルルーシュ29歳のときの作品とのことだが、脚本、演出、カメラワーク、音楽のいずれも卓越したものがある。アヌーク・エーメはこれ以上の適役はないくらいにはまっていたと思うし、主人公であるレーサー役ジャン=ルイ・トランティニャンの切れと、死んだ男を演じたピエール・バルーの素朴さの対比の間での揺らぎがよかった。そして、名作には名曲。ゆったりと体を委ねて観る時間は貴重だった。

男と女.jpg
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